2011年12月15日

戦国武将・島左近の
屋敷は島町にあった!?

あっと驚く資料が、「平群史跡を守る会」事務局の村社仁志さんより、ご丁寧な送り状を添えて当会に送られてきました。その送り状の末尾には「貴会の所在地である島町に、嶋左近屋敷の伝承があることをお伝えしたく、ご連絡させて頂きました」とあります。

「目からウロコ」とはまさにこの事。会の発足(二〇〇五年)当時より、そういう伝説があったことは聞き及んでおりましたが、灯台もと暗し、資料文献にあたることもせず、ほったらかしにしておりました。


↑島左近肖像画。「帝国人名辞典」(1907)所収(ウィキペディアより)。

当島町が「島左近清興の大坂屋敷跡であった伝承?の信憑性について期待と確信?」と送り状の中で村社さんが控えめに述べられている部分について、当会でも裏付け調査を進めていきたいと考えています。

それとともに、広く読者の方からも情報を寄せていただきたいとの思いから、フェースブック「八軒家かいわいマガジン」上でも【かいわい伝説】のコーナーを新設し、その第一回として「島左近の大坂屋敷跡」をとりあげております。以下に再掲します。資料はすべて、村社さんから頂戴したものを引用させて頂きました。改めて御礼申し上げます。


【かいわい伝説】島左近の大坂屋敷跡:松屋町より東を島町という。この地は以前沼地にて芦繁茂し、最初、尾黒七郎右衛門氏の祖、この土地を得、芦を分け家を建つ(伊勢阿漕辺の人故に伊勢屋と称せり)。今の幼稚園東半分の土地にあたる。豊臣時代に一丁目二丁目半に至る北側に島左近の屋敷及び今の幼稚園西半に知恩院の一部、華頂宮の金銀貸付屋敷あり。尚いわゆる島町通りは高麗橋よりの貢物の使者の通路であったという(『北大江沿革史』(1921年)より抜粋)。

『多聞院日記』の記述Aの後半部分「嶋左近ノ内方法印ノ娘一段孝行、左近陣立ルスノ間越了」を今一度考えるに、英俊が「一段孝行」と表現するくらいであるから、北庵の娘は結構な道のりを「わざわざやって来た」のであろう。つまり左近夫妻は南都からある程度離れた場所に住んでいたと思われる。記録Bの天正二十(文禄元)年四月十日の時点では「今江州サホ山ノ城ニアリ」の通り、左近夫妻は佐和山城に居住していたと見て良い。しかし「今」という文字が付けられており、まだ佐和山に住んで間がないように思える。とすれば、天正十八年の時点ではまだ佐和山には居住していなかった可能性が高い。現時点では推測の域を出ないが、これらを併せ考えると、左近夫妻は当時京都または大坂にいたのではないかと考えたい。そうなると、屋敷は秀吉から与えられていると見るのが自然である。加えて京都東山には現在左近の屋敷跡と伝えられる料亭「道楽」が、大坂には左近の屋敷があったとされる島町(大阪市中央区)があり、これらとの関連も今一度注目されよう(『戦国浪漫』(坂本雅央)「嶋左近」→「徹底追跡嶋左近」「石田三成のもとへ(1)」→「石田三成の所在」より抜粋)。

(以上引用終り)

以下は、当会の(現時点での)追加資料および見解です。

ヤフー辞書で「島町」を検索すると以下の項目がヒットします(項目のみ。引用文略)。

1.しまちょう【島町】愛知県:岡崎市/岡崎城下-日本歴史地名大系
2.しままちいっちょうめ【島町一丁目】大阪府:大阪市/東区-日本歴史地名大系
3.しままちにちょうめ【島町二丁目】大阪府:大阪市/東区-日本歴史地名大系

出典の『日本歴史地名大系』では、島町一丁目は次のようになっています。

島町一丁目 (現)東区島町一丁目
石町の南にあり、谷町一丁目と同二丁目の間を通る高麗橋筋を挟む堅町。東から南北の善安筋・高蔵筋が通る。初発言上候帳面写はもと島町には丁目がなかったように記すが、明暦元年(一六五五)の大坂三郷町絵図では西から一―三丁目の区別があり、同年水帳奥書写(安政三年「水帳」大阪市立中央図書館蔵)によれば当時当町は島町三丁目であった。島町が東から一丁目・同二丁目となった時期について、元禄六年(一六八八)増補大坂図には延宝九年(一六八一)町名改正とあり、大坂町内之内町名替り候写には元禄六年、元禄六年水帳奥書写(同上)には三丁目から一丁目に改称したため水帳を改めたとある。島町は「蘆分船」などに島屋町とあるので、開発商人の屋号に由来するのかもしれない。(以下略)。(『日本歴史地名大系』)


↑明歴三年(一六五七)「新版大坂之図」部分

島左近伝説に早くも暗雲が立ち始めました。まず、この雲「島町=島屋町説」から吹き飛ばしておきましょう。

夏の陣で荒廃した大坂の復興のため、大坂城城主となった松平忠明は、信望厚い有力町人を元締衆として、彼らに町割りをさせ、また各町の町年寄には水帳(土地台帳)を作らせました。宝暦三年(一七五三)作成の『初発言上候帳面写』には、元締衆・町年寄りは、元和二年(一六一六)に忠明から惣会所を与えられ、再三にわたって寄りあい協議したとあります。徳川大坂の最初の町名は、住人たちが協議して決めていたようです。

島町=島屋町説の『蘆分船』は、別名「大坂鑑」「難波名所記」ともいいます。著者は一無軒道治(いちむけん どうや)で、延宝三年(一六七五)に刊行されました。内容は大坂および近郊の名所・旧跡・社寺などについての記述が七二項目にわたってなされ、それぞれに挿絵も添えられています。六巻六冊からなる大坂最初の本格的な名所案内記です(大阪市立図書館)。


↑蘆分船:難波名所 大坂鑑巻1 大江岸
大江浦。大江橋などと歌にもよめり。しかれども。所の人の説。くだくだしく侍れは。いづこを。証としかたし。今の真清水より。御城の前あたりを。惣名とせるなるへし。昔日。斎宮はしめて。伊勢へくたり給ふ時は。逢坂を越させ給う。帰京のときは。かならず。さだまりて。立田越を経て。大江の岸を。とまりとす。(略)

『日本歴史地名大系』にある「開発商人の屋号」を、当時の記録から探してみると、寛文十一年(一六七一)に大坂の飛脚問屋「島屋三衛門」が江戸の備前屋与兵衛らと謀り、両地間の金銀貨の逓送を開始し、金飛脚の看板を掲げた(『新修大阪市史』第三巻)とあります。

江戸時代を通じて飛脚問屋は、交通の便の良い八軒家周辺に集まっていましたから、「島屋」が「島町」にあったとしても不思議では無いのですが、逆に、「島町」にあったから「島屋」を名乗ったとも考えられます。前述のように、明暦元年(一六五五)の『大坂三郷町絵図』にはすでに島町の町名が記されいることから、後に、豪商の屋号「島屋」をもって通称したと考えるほうが自然でしょう。島町=島屋説はもろくも崩れ去りました。

百歩譲って、元締衆・町年寄が、「島屋」があったから「島町」と決めたとしてみましょう。これが「島左近伝説」と矛盾するかといえば、全然そんなことはありません。

徳川の治世になったとはいえ、元和二年(一六一六)は夏の陣の翌年です。大坂の町はまだまだ豊臣びいきに満ち満ちていたと思われます。ところが、徳川大坂城の築城(豊臣大坂城を一〇メートルも地下に葬った)例を見てもわかるように、江戸幕府は豊臣時代の痕跡を完全に消し去ろうとしていたように見受けられます。石田三成の一の家臣である島左近の名の継承は望むべくもない状況だったと思われます。しかし、左近の屋敷があった事実は後世に伝えたい―そんな町人の熱い思いを受け止めたのが、後に島町となる通りに店を開いていた豪商「島屋」であった可能性があります。

そうであれば、明暦三年(一六五七)の地図(=前掲)が「志まやまち」と、通称をわざわざ記している説明がつきます。「島町という町名は島左近の屋敷跡から採ったものではありませんよ。島屋から採ったものですよ」というように。

つづきます(津川)。

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2011年11月21日

植草甚一もクリビツの
江戸スクラップ全十六巻

本日公開の『八軒家かいわいマガジン』の最新号(通巻三十八号)「大坂の蘭学の祖は傘職人の息子だった!―橋本宗吉物語―」、もうお楽しみいただけましたでしょうか?(まだの方は、以下、ネタばれに注意してお読みください)。

今回の記事の柱になったのは、名高い大槻玄沢邸での「おらんだ正月」(旧暦十一月二十六日)の宴の余興に配られた「蘭学者見立番付」という一枚の番付表ですが、この現物が『芸海余波』と題されたスクラップ・ブックにほぼ完全な形で保存されています。


↑『芸海余波 第十巻』に貼りこまれた「蘭学者見立番付」


『芸海余波』は、江戸時代に製作された貼込帖(スクラップ…ブック)で、全部で何巻あるのか不明ですが十六巻が現存しています。一枚刷りのチラシや引札、地図、暦、番付や版画、珍しいと思われた商標類などを、あたりかまわず貼り込んであります。現物を早稲田大学図書館が蔵しており、その解説には

昭和23年に早稲田大学図書館が、「確堂文庫」の蔵書印のあるほかの幾多の書物とともに購入した。この貼込帖自体には蔵書印や所蔵者をしめす記録はないが、これも「確堂文庫」にあったものと考えられている。確堂とは美作国津山藩主松平斉民(1841〜1891)のことで、彼がみずから収集した資料を貼り込んだものであると推定される。
 本書にあつめられた雑多な資料は、寛政年間より幕末にかけてのもので、西洋あるいは中国より渡来した商品の商標や西洋版画の模写、高名な蘭学者の筆跡などが含まれていることからみても、蘭学に熱心だった松平斉民と津山藩に深いかかわりがある。
 本資料の中には、名高い大槻玄沢邸での「おらんだ正月」の宴の余興に製作されたと思われる「蘭学者見立番付」が含まれている。(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)

とあります。


↑いずれも『芸海余波』より。
左の写真左ページ下の「ROWLAND's MACASSAR oil」はヘアーオイルの広告。ルイス・キャロルのパロディ誌にも出てくる有名ブランドです。グーグルの画像検索で多数ヒットするので、コレクターズ・アイテムになっているようですが、こんなに古いもの(レタリング)は見当たらない。ひょっとして、お宝?

寛政年間の番付表が、幕末の斉民のコレクションに加わっているということは、番付の評価の高さを物語っているのではないでしょうか(津川)。

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2011年02月10日

大阪人はサントリーを飲もう!

毎日新聞(2011年2月9日)より

サントリー:「死ぬまで本社は大阪」佐治社長


↑会見で記者の質問に答えるサントリーホールディングスの佐治信忠社長=大阪市内で2011年2月8日、植田憲尚撮影
 サントリーホールディングス(HD)の佐治信忠社長(65)は8日の会見で、「私が死ぬまで本社は大阪に置く」と述べ、本社を当面移転しない方針を明らかにした。相次ぐ大阪発祥企業の本社移転に対し、佐治社長は「(サントリーも)将来的にはシンガポールやニューヨークに移した方が効率的かもしれない」と一定の理解を示した。しかし、「何でもかんでももうかったらいいわけでもない」と述べたうえで、「大阪で生まれ育ったことを大事にする精神があってもいい」と、経済効率だけで本社移転を判断すべきでないとした。【植田憲尚】

ここまで言われたら、もうゼッタイ、飲むならサントリーやね(津川=下戸です)。

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2011年01月11日

目覚めるか「秀吉の城」
四百年の眠りから

一月二日付け朝日新聞記事より

地中に眠る秀吉時代の石垣 大阪城、市が本格調査へ

 豊臣秀吉(1537〜1598)の呼び名にちなみ、「太閤(たいこう)さんの城」として親しまれる大阪城。しかし、現在の石垣は徳川時代のもので、秀吉の遺構は約400年間、地中に眠ったままだ。天守閣復興から80年となる来年度、大阪市はその謎に迫ろうと、本格的な発掘調査に乗り出す。


↑大阪城の石垣展示のイメージ図。左上が現在の天守閣、右下が豊臣時代に造られた石垣=大阪市の資料から

 財団法人「大阪市博物館協会」などによると、1583年に秀吉が築城を始めた大阪城は、徳川家康の攻略により、1615年の大坂夏の陣で落城。天守閣は焼け落ちた。現在の石垣(高さ最大32メートル、総延長11.2キロ)は、徳川2代将軍の秀忠が再築した。豊臣の石垣は地中に埋められ、その上に徳川の石垣や新たな天守閣が造られたという。


↑豊臣秀吉像(部分)=大阪城天守閣提供

 豊臣の石垣の一部が初めて確認されたのは1959年。堀の水が干上がった際に市が地盤調査をしたところ、本丸の地下約7メートルから見つかった。翌60年に幕府の大工頭の子孫宅で発見された豊臣時代の本丸の図面とも一致。天守閣前の広場に見学用の穴(直径約3メートル、深さ約10メートル、普段は非公開)が設けられたが、それ以外は埋め戻された。

 市は、来年度予算案に調査費数百万円を計上する。豊臣時代の石垣は、加工した石を積み上げた徳川期のものとは違い、自然石を多用した3段構造。まずは、85年に現天守閣の南東約100メートルで発見された旧本丸の最上段「詰(つめ)の丸」の石垣の調査を始める。


↑大阪城の本丸。「詰の丸」の石垣は現在の天守閣と旧市立博物館(真ん中上)の間に埋まっている。初代天守閣は現天守閣より左側約100メートルにあった=大阪市中央区、本社ヘリから、矢木隆晴撮影

 将来的には、本丸内にある旧市立博物館(01年閉館)の地下室から深さ約10メートル、全長約100メートルの地下通路を造り、豊臣の石垣を常時展示する計画(総事業費13億5千万円)も構想している。(島脇健史)

これを機会に、「秀吉が築いた城」の全貌を正確に復元するプロジェクトも、ぜひ立ち上げていただきたいものです(津川)。

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2010年12月21日

大坂城・八層説の正体

脇田修さんの『近世大坂の町と人』(人文書院 一九八六)に次のような記述があります。

豊臣氏大坂城天守閣は、屋根が五重、内部は六階・地下二階という大城郭であった(第二章「地中から現れた大坂城」より)。

この箇所に限ればとくに出典が示されていませんが、前後の記述から拾っていくと、基礎になった資料は「大坂夏の陣図屏風」「豊臣時代大坂城本丸指図(中井家所蔵)」「仙台伊達家に伝わる絵図」および「岡本良一さんや渡辺武さん、また宮上茂隆さんらの研究」「大友宗麟や宣教師らの筆」であると思われます。

この本の出版以後の新しい資料は、エッゲンベルグ城にあった「豊臣期大坂図屏風」ぐらいですが、この図の資料評価は本稿でも触れた通り。通説を覆すほどのものでは有りませんでした。となると、脇坂さんがまとめた「秀吉が築いた城」像は、とくに追加・変更を加えることなく現在でも通用していると考えてよさそうです。フロイスが「八層」と表現したのは、階層のことであったのかあ。


↑大坂夏の陣図屏風(右隻)

ところで、気になったのは黒田家伝来と伝わる「大坂夏の陣図屏風」です。ここに描かれた大坂城は、脇坂さんらにはかなり信頼できる姿であると捉えられておるようです。しかし、本稿では広島大学大学院の佐藤大起さんの説(PDF)をとり、「作図上のごまかしがあって、構造的に無理」と片付けておりました。

この屏風はこれまで、城の南にあった大御所・徳川家康の本陣を右端に描き、大坂城や北方の淀川水系を中央から左にかけて描いているため、城や天守は当然、「西」から眺めた姿であると考えられてきました。ところが、『天守が建てられた本当の理由』の横手聡さんによれば、これは作画上の演出で、本当は「城を南から眺めた姿で描いている」というのです。

横手さんがあげるその理由は。主に次の三つです。

一、天守の屋根にある唐破風

↑詳細は省きますが、これは「南北面」にあるのが正しい。

二、天守の窓の女性

↑戦況を眺めている=主戦場である南を向いているはず。

三、天守の四神

↑最上階の小壁にくっきりと「南の朱雀(鳳凰)」が描かれている。

つまり、城を時計方向に九〇度回転させて描いたのは、「戦場の俯瞰と城の正面(南)を同一平面で実現するための絵師の工夫」であるとするわけです。

そうであれば、「東西が平、南北が妻となるはずであるが、この屏風ではそれが逆に描かれている」のを「作画上のごまかし」とした佐藤説は考慮しなくてもよいことになります。とはいうものの、横手説をとれば、天守の屋根が東西方向に延びていることになり、他の絵画資料とは明らかに異なります。

ということで、以上を総合して、武者走りの有無や唐破風の有無にも注目すると、本稿で取り上げた他の絵図の模写ラインは

「豊臣期大坂図屏風」→「大坂城図屏風」→「京・大坂図屏風」→「大坂冬の陣図屏風」

ということになりそうです。「大坂夏の陣図屏風」だけが特異です。そうして、横手説=天守の妻は東西面が正しいとすれば、「大坂夏の陣図屏風」の制作年はこれらすべての絵図に先行し、以後に描かれた豊臣期大坂城図の手本になったと推察することができます。意外なことに、再発見された「豊臣期大坂図屏風」の制作年代は、けっこう古いと思われます。

せっかくですから、ならべなおしてみましょう(津川)。

大坂夏の陣図屏風(南東面=横手説))※描かれた城の向きは画面左手より。以下同様

豊臣期大坂図屏風(東北面)

大坂城図屏風(北西面)

京・大坂図屏風(北西面)

大坂冬の陣図屏風(北西面)

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2010年10月25日

ますます、わからない!?
秀吉が築いた城

秀吉築城の大坂城について、前回の考察では画像資料に頼ったために、『はっきりしているのは「五層」ということぐらい』と安直に考えてしまいました。従って、モンタヌス『日本誌』に掲載された有名な挿絵「大坂落城」を、城が八層であることから、あっさり捨て去っておりました。

ところが、フロイス『日本史』第四章(第二部六六章)の「大坂城と新市街の建設について」には、次のように書かれています。

(羽柴)筑前殿は、まず最初にそこにきわめて宏壮な一城を築いた。〈略〉もっとも主要な城(本丸)に秀吉が住んでおり、その女たちも同所にいた。八層から成り、最上層にはそれを外から取り囲む廻廊がある。※( )内は訳註。

え、八層!?これはまた、どうしたことでしょう。モンタヌス挿絵説、復活か!?このあたりをちょっと検討してみます。

かたや、モンタヌス(1625〜1683)の『日本誌』は「東インド会社から日本に遣わされたオランダ使節や宣教師の報告・日記など16 、17世紀の膨大な資料をもとに、海外で始めてまとまって日本を著述したもの」(雄松堂書店「大学図書館所蔵稀覯書紹介」)ではあるものの、「収録されている挿画の人々や風俗も実際の日本のそれとはかなりかけ離れており、想像によって描かれたものである」とされています。ところが、オランダ商館長の江戸参府日誌など公の文書を利用した記事も見受けられ、挿絵の「徳川大坂城」などはそれらの資料を駆使したかなり正確な復元図であるともいわれています。


↑モンタヌス『日本誌』挿絵「大坂落城」


↑モンタヌス『日本誌』挿絵「大阪城図」
『日本誌』はオランダ人牧師モンタヌスが記した日本の地誌。一六六九年にアムステルダムで初版が刊行された。本の中には、徳川再築大坂城の正確な図が掲載されている。これは、オランダ東インド会社が入手した大坂城の図をもとにオランダ人画家フィングボーンズが描いた「大坂城図」(ハーグ国立文書館蔵)を、さらに簡略化して描き直したもの。モンタヌス自身は来日したことはない。画面の手前が西(大手)側(「テーマ展大阪城の歴史」図録より)。

こなた、フロイス(1532〜1597)の『日本史』は、「日本における布教史の編纂の執筆を命じられ、以後10年以上にわたって執筆を続け、時には1日に10時間以上の執筆を行った」(ウィキペディア)ということからわかるように、本人自ら見聞きした事項が中心で、記述の正確さには定評があるところです。

フロイスの『日本史』をモンタヌスが参照した可能性もあります。しかし、『日本史』は、1742年にポルトガルの学士院が同書の写本を作成して本国に送付するまで、マカオのマカオ司教座聖堂に長く留め置かれ、オランダ人のモンタヌスがこれを目にする(あるいは読んだ人から聞き及ぶ)ことはなかったものと思われます。

何が言いたいのかというと、『日本史』と『日本誌』は独立に「大坂城八層」説を唱えており、これを偶然の符合(つまり、どちらも間違った記述である)とは考えにくいということです。ついでに言えば、『日本誌』には(五層)徳川大坂城が正確に描かれているのに、秀吉大坂城をわざわざ八層にする必要もないのではないか、と。(津川)

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2010年06月23日

秀吉が築いた城
ホンモノはどれだ?

豊臣時代の大阪城天守閣はどんな形をしていたのでしょうか?とりあえずウィキペディアにあたってみます。


↑現在の大阪城天守閣(北西方面より=二〇〇八年)※方角は画面左より記述(以下、同様)。

一五八三年(天正十一年)、安土桃山時代に石山本願寺の跡地である、上町台地に、豊臣秀吉が築城を開始した。完成に一年半を要した本丸は、石山本願寺跡の台地端を造成し、石垣を積んで築かれたもので、巧妙な防衛機能が施された。秀吉が死去するまでに二の丸、三の丸、総構えが建設され、三重の堀と運河によって囲むなどの防衛設備が施された。天守は、絵画史料では外観五層で、外壁などに金箔をふんだんに用いた華麗な姿で描かれている例が多く、それに則した復元案が出されている。大坂城の普請中に秀吉を 訪問し、大坂城内を案内された大友宗麟は、大坂城を三国無双と称えた。(大坂城―Wikipedia)※強調は筆者

はっきりしているのは「五層」ということぐらいで、あとは同時代(?)に描かれた絵画を手がかりにするぐらいしか能がないようです。ということで、残されている絵画資料(ほとんどが屏風絵)に片っ端から当たってみました。景観年代の古いと思われる順に、とりあえずあげてみます。図六を除き天守のみの部分図です。


(図一)大坂城図屏風(北西面)
大坂城とその城下町を描いた屏風絵としては現存最古と推測される。景観年代=一五八五年〜一六〇〇年


(図二)豊臣期大坂図屏風(東北面)
原本は一七世紀後半にヨーロッパへ渡り、オーストリア・神聖ローマ帝国の貴族のエッゲンベルグ公の所有に帰した屏風。景観年代=一五九六年〜一六〇〇年


(図三)京・大坂図屏風(北西面)
左隻(京図)の上部には秀吉を神と祭る豊国神社が描かれている。つまり秀吉没後、秀頼時代の両都市が本図の主題。景観年代=一五九九年〜一六〇〇年


(図四)大坂冬の陣図屏風(北西面)
武内勇吉模写(平成二年)。原本は幕府の奥絵師をつとめた木挽町狩野家に伝来したものだが、それ自体も江戸後期の模写本で、原図は存在しない。景観年代=一六一四年


(図五)大坂夏の陣図屏風(西南面)
合戦後まもなく、福岡藩主黒田長政が描かせたものと伝えている。景観年代=一六一五年 ※現在の大阪城は、この図を基に昭和初期に復興されたもの。平成の大改修を経て現在の姿に=筆者註


(図六)モンタヌス『日本誌』挿絵「大坂落城」(北
面?)
『日本誌』はオランダ人牧師モンタヌスが聞き書きした日本の地誌。一六六九年初版。景観年代=一六一五年


(参考図)豊臣時代大坂城本丸指図
この図の原本は、江戸幕府の京都大工頭をつとめていた中井家で昭和三十五年に発見された二枚図のうち一枚。

けっこうありますが、天守が八層の図六はあげただけです。他の五つは、向きも形状も微妙に異なっています。さて、どこから手をつけたらいいでしょうね。幸いなことに、広島大学大学院の佐藤大起さんが書いた「豊臣大坂城天守を描いた屏風に関する考察」(PDF)という論文がありました。

佐藤さんは、図一・四・五の天守形状および参考図を基に、論をすすめています。その論点はおよそ次のようになります。

一、「大坂夏の陣図屏風」(図五)は、作図上のごまかしがあって、構造的に無理。
二、「大坂城図屏風」(図一)および「大坂冬の陣図屏風」(図四)は、構造的に無理がない。北面の付庇を描いている。
三、「大坂城図屏風」(図一)の付庇のある床は、一階の床より低い。「大坂冬の陣図屏風」(図四)では同じ高さに描かれている。
四、中井家所蔵「本丸図」によると、付庇が設けられていたと考えられる武者走りは、天守一階床から五尺下がっている。

これらの論点から佐藤さんの出した結論は

「大坂城図屏風」の天守は、構造的な問題がほとんどなく、北面の付庇という天守としては特異な点を描いていること、中井家所蔵「本丸図」と完全に一致することなどが特色である。「大坂冬の陣図屏風」は、「大坂城図屏風」の天守を直接または間接に模写したものである。

というものです。いかがでしょうか。

ところで、佐藤さんの論文には「豊臣期大坂図屏風」(図二)と「京・大坂図屏風」(図三)は出てきません。さて、この二つの資料評価はどうなんでしょう。佐藤さんの論点を参考にすれば、すぐに答えが出そうです。

一、両図とも構造的には「大坂冬の陣図屏風」(図四)に似ている。
二、「京・大坂図屏風」(図三)の二階の形状が「大坂城図屏風」と同じ。
三、「京・大坂図屏風」(図三)は北面の付庇を描いている。ただし、床高は一階と同じ。付庇だけが飛び出している。
四、「豊臣期大坂図屏風」(図二)は、形状が「大坂冬の陣図屏風」(図四)に似ているが向きが違う。付庇はない。

ということで、「大坂城図屏風」→「京・大坂図屏風」→「大坂冬の陣図屏風」→「豊臣期大坂図屏風」という模写ラインが見えてきました。(津川)

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2010年06月09日

消えた天神橋?
謎が深まる市街図屏風

「消えた天神橋?」シリーズ四回目です。

前回までは主に「豊臣期大坂図屏風」(左の図)に描かれた市街図を元に推理を組み立てました。今回は、当会の主張を補強すべく他の資料にもあたってみます。


図一 豊臣期大坂図屏風(八曲一隻)
景観年代=一五九八年(八軒家かいわい説)

この屏風の第三扇および第四扇にかかる橋それぞれを、エッゲンベルグ城(グラーツ州立博物館)の解説(PDF)では「天満橋」「京橋」、大阪城天守閣の解説(特別展図録)では「天神橋」「天満橋」としています。八軒家かいわい(当会)が出した結論は、前二者とは異なりました。確認のため三者の主張を再掲します(順番は一部入れ替えました)。

一、「屏風」に描かれた橋のうち、第三扇は「天満橋」、第四扇は「京橋」である。「天神橋」はまだなかった=エッゲンベルグ城説
二、第三扇が「天神橋」、第四扇が「天満橋」である。「京橋」はまだなかった=大坂城天守閣説
三、第三扇は「天神橋」、第四扇は「京橋」である。「天満橋」はまだなかった=八軒家かいわい説

豊臣時代の大坂の街については、参考にできる画像資料はほとんどないのが実情です。だからこそ、エッゲンベルグ城の屏風がNHKも取り上げるほど騒がれた訳ですが、この屏風も含め、後代(たぶん江戸初期)に描かれた数点の屏風絵で当時の市街の様子を推し量るしか道がありません。

幸いなことに、エッゲンベルグ城の「豊臣期大坂図屏風」再発見をきっかけに大阪城天守閣で開催された「大阪城・エッゲンベルグ城友好城郭締結記念特別展」(二〇〇九年)で、それらの貴重な屏風絵をまとめて閲覧することができました。同展図録より、景観年代の古いと思われる順に抜き出してみます(解説も)。なお、図一についてはこちらを御覧下さい。


図二 大坂冬の陣図屏風(六曲一双)左隻四扇・五扇
幕府の奥絵師をつとめた木挽町狩野家に伝来したものだが、それ自体も江戸後期の模写本で、原図は存在しない。景観年代=一六一四年


図三 大坂夏の陣図屏風(六曲一双)左隻一扇・二扇
合戦後まもなく、福岡藩主黒田長政が描かせたものと伝えている。景観年代=一六一五年


図四 大坂市街図屏風(六曲一隻)四〜六扇
大坂冬の陣・夏の陣から立ち直った大坂の繁盛ぶりが、本図の主題だろう。景観年代=一六〇〇年代前半?


図五 大坂市街・淀川堤図屏風(八曲一双)左隻一扇〜四扇
江戸時代初期、17世紀中葉以前の町絵師による作品とみられる。景観年代=一六四四年以後?

いずれの屏風も、問題の橋が描かれている部分のみを抜き出しました。さて、どうでしょう。図五を除き、大川(および大和川)にかかるそれらしき橋は二橋のみ。ただし、図二・図四では、東横堀より西に難波橋らしき橋が描かれています。これは「豊臣期大坂図屏風」(図一)にはありませんでした(右端に描かれている帆船が外洋船らしきところからそう判断したのですが、単に省略されているだけかも知れません)。

さて図二ですが、図録解説によれば、大和川にかかる橋(上)が「豊臣勢が京橋をわたって出撃する」、大川にかかる橋(下)が「現在の天満橋あるいは天神橋の前身にあたる橋」となっています。ところが、図をよく見ると、下の橋には「天神橋」という書き込みがあるのがわかります。従来、この書き込みは「天満橋の誤り」としてあっさり片付けられていたのですが、さすがにおかしいと思ったのでしょう。「天満橋あるいは天神橋」と言葉を濁したようですが、しかしこれでは図一の解説とつじつまが合いません。

図三は史上名高い「大坂夏の陣」を描いた有名な屏風です。残念なことに大川(および大和川)にかかる橋は一つしか描かれていません。図録には「天満橋は焼け落ちており、避難民や敗残兵は徒歩で淀川を渡っている」とあります。図二で言葉を濁した天守閣さん、ここでは強気です。「天満橋」と言い切っています。とすれば天神橋はどこに消えたのでしょうか?

図四は「京橋」が特定できるので貴重です。五扇上方に描かれた橋に「京ばし」の貼紙がみえます。この図でも東横堀より東の大川に架かる橋は一本だけです。残念なことに貼紙の文字が消えていますが、図録では「大坂の陣後、幕府によって掛け直された天満橋」とされています。さらに、橋のたもと(西側)に船着場が描かれていて、これを「八軒家船着場」としています。う〜む。

図五では方角がかなり歪曲されています。大川が東西にまっすぐ延びていて、大和川との合流地点が描かれていません。したがって京橋は無しです。橋は一本だけで、図録では「天満橋の上では男と女がけんかしている。橋の向こう側は八軒家浜」となっています。ここまでは、まあ許容範囲ですが、天満天神の祭礼が出てきて(三・四扇)おかしくなります。これは「天神祭」を描いたものですが、天満天神の位置が天満橋とされる橋の上流(東)にあります。ここで、ん?となります。いかに歪曲されているといえ、川の上下などの相対位置は外さないのがこの手の市街図の作法です。ちなみに、現在の天神社は天満橋の下流(西)、天神橋の北に位置しています。寛永二十一年(一六四四)に避難先の吹田から戻って以来、ずっとこの位置です。

図一〜図五に共通して言えるのは「東横堀より東(かつ大和川との合流点より西)で大川に架かる橋は一橋のみ」ということです。一五九四年の天神橋創架記録(天満天神社社伝)を信頼できるものとするなら、描かれた橋を「天神橋」とすれば図二〜五でとりあげた矛盾はすっきり解消します。

残る問題は「八軒家船着場はいつごろどこにできたのか」「天満橋はいつごろどこにできたのか」、この二点です。(津川)

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2010年03月10日

「がんばらにゃ!大阪」
岡目八目提言集

「大阪をもっと元気に!」八軒家かいわいメンバーからの提言のあれこれをまとめました。「こんなことしたら、どないやろ」「そういえばあそこにこんなもの作ったらええなあ」などなど―。そんなちょっとしたアイデアをお寄せください。

川端やなぎを復活させよう!

建築家の安藤忠雄さんが音頭をとった「大川端一帯にさくらの木を千本植えようという運動がすすんでいる。同時に、かつての水辺の主役「川端やなぎ」を復活させれば素晴らしい景観になる…。

真珠貝の養殖で道頓堀をきれいに!

2003年から道頓堀で養殖されていた真珠貝が初めて川から取り出された。真珠は大きなもので直径13ミリ以上に成長していたらしい。しかも浄化に役立つ。貝ひとつで一日にドラム缶一本分の水の浄化ができるという。

「水都再生」を八軒家かいわいから―

抵抗勢力に囲まれ多難な船出だが、橋本知事の若いエネルギーを府民も後押しせねば。「水都大阪」構築には、われわれ草の根も一肌脱がねばなるまい。役所がハゲタカへ丸投げするより、地に足のついた自前のプランを…。

天神祭を単なる大花火大会に終らせるな

「最もがっかりした観光地ランキング」(週刊ダイヤモンド)でなんと大阪市は堂々(?)の二位!う〜ん、このままではいけないのではないか。たとえば天神祭。祭りの舞台としての大川や中之島一帯の再設計など考えねば…。

大阪にもシンボルとなるタワーを!

大阪には塔がない。あっても低すぎて目立たない。大阪城も高さではひけをとる。海外の都市では、上海もパリもニューヨークでも独自の塔を建てている。そこで通天閣の向こうを張る新タワーを考えてみた。名づけて「ビリケンタワー」。(平野)

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2010年03月03日

よみがえる石山本願寺

報告が遅れましたが、先月のこと、現在製作進行中の映画「SAIKA―雑賀の孫市―」(後述)の監督・山口雅和さんとCG製作担当の栩木(とちき)雅典さん、野村尚未さんが来訪されました。筆者が次のニュースを見て、旧知の栩木さんに連絡したのがきっかけです。

(以下、京橋経済新聞より引用)
よみがえる石山本願寺−大阪城の原点を見つめる映画、CG制作開始

大阪城が豊臣秀吉によって作られる前、そこには石山本願寺とその寺内町が広がりにぎわいをみせていた。その様子をCG(コンピューターグラフィックス)で再現するという試みが現在、大阪のクリエーターらによって進められている。

 制作中のCGは、来春公開予定の映画「雑賀の孫市」(山口雅和監督)で使われる映像。「雑賀の孫市」は戦国時代、織田信長と浄土真宗の門主顕如(けんにょ)が10年間にわたって繰り広げた石山戦争で、顕如の下で活躍した伝説の男・雑賀孫市(鈴木孫市)の生き様を描く映画。舞台となる石山本願寺とその周辺の様子をCGで再現することで当時の活気と臨場感を出すのが狙い。

 制作の中心となっているのはデジタルハリウッド大学大学院教授の栩木(とちき)雅典さん。栩木さんは以前、京都の街並みを再現するCGを作成した実績を 持つ。今回は同大卒業生に呼びかけて「雑賀VFXチーム」を結成し制作に取り組んでいる。メンバーたちは日々古い図表や文献を探り、さらに今に残る本願寺 やその周辺の寺院を回って石山本願寺のデータを収集。

 「石山本願寺についていろいろ調べていくうちに、この地が水運の要で物流が盛んに行われていて、日本史上重要なポイントであったことを改めて感じている」と栩木さん。寺内町では楽市楽座のように自由にものの売り買いが行われていたという。同チームメンバーの一人、山壁りかさんは「石山本願寺と寺内町は 今でいうとテーマパークのよう。その生活感と活気が伝わるようにしたい」と話す。

 CGは6月の完成を目指す。その後、役者たちとの合成作業が始まる。山口雅和監督は「この映画を通して古いものを生かして新しいものを生み出す日本人の力強さを表現したい」と意欲をみせる。
(以上、引用終り)

八軒家かいわいマガジンで、石山本願寺を取り上げた経緯もあり、資料集め等で何か手伝えないかと軽い気持ちで連絡したのですが、監督ともども来訪いただき、映画に懸ける意気込みを熱く語っていただきました。


製作中のCG。寺内町へ通じる橋は大川に架かっているのだろうか(栩木さん提供)。

映画「SAIKA―雑賀の孫市―」について(企画書より)
■あらすじ■
戦国時代に、天下統一目前の圧倒的な兵力を持つ織田信長と浄土真宗の顕如との対立が激化していた中、顕如より、打倒信長の使者として孫市が見出される。当時、土地も冷え貧しかった雑賀の民を食べさせるため孫市は持ち前の鉄鍛冶の技術で新式銃を作り、弟と信長の兵を次々と撃ち落してゆく。そんな中 資金力のある信長も鉄砲の魅力に着目、敵の新しい戦術に孫市は苦戦する。弟分たちが次々と倒される中、なんとか戦を終結させたい孫市は或る行動に出る。完全オリジナル作品。

■この作品のみどころ■
戦国ブームの中、若い女性を時代劇で映画館に呼び込めるチャンスです。大名の支配を受けず、鉄砲一丁で強大な信長を苦しめた雑賀孫市は、新しいヒーロー像を求められている現代社会に必ず旋風を巻き起こします。

監督・脚本 山口雅和(やまぐちまさかず)
映像製作集団「和楽」代表/骨董カフェ和み屋経営。
1997年度より数々の短編映画、自主企画などを発表。学生の頃より、京都国際学生映画祭、ゆうばり映画祭、インディーズムービーフェスティバル入選などを得る。
2007年、初の劇場公開作品 「或る探偵の証明」を発表し、シネリーブル梅田にて、当時のレイトショー観客動員数記録を作り、翌年、同作品がゆうばり国際学生映画祭に招待され、2007年度の単館上映作品の中で、インディーズ作品トップ2の一本に選ばれた。
2008年、時代劇「友の夢」がハンブルグ日本映画祭に招待される。また平行して、2005年頃より町屋再生を絡めた、ご当地映画などの探求を重ね、作品を発表。現在、時代活劇「雑賀の孫市」を企画制作中。

VFX総指揮 栩木雅典(とちきまさのり)
現メガフュージョンでDTM(デスクトップミュージック)の黎明期から電子楽器・ソフトの普及活動に従事し、DTM業界に貢献。ポストプロダクション「コウダイコング」へ移籍、CGディレクターとして3DCGとマルチメディア・映像制作ほか、映像音響システムの企画・設計なども手掛ける。その後、コンテンツ制作会社「KAILAS」を設立し、現在、デジタルハリウッドで講師の傍ら、個人事務所「Bugphant」でデジタルコンテンツ制作も手掛けている。3D研究室の責任者。

(津川)

投稿者 tategaki : 17:04| コメント (0)| トラックバック (0)

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