2010年06月15日

光源氏の見た八軒家かいわい

源氏物語の主人公、光源氏は京都の外にはめったに足を運ばなかったようです。数少ない例外は、須磨で隠居生活を送った時の道中と内大臣になってからの住吉詣です。その中から、八軒家かいわいの地名が登場するシーンを、二つ抜き出してみましょう。

まず、須磨道中から。

かりそめの道にても、かかる旅をならひたまはぬ心地に、心細さもをかしさもめづらかなり。 大江殿と言ひける所は、いたう荒れて、 松ばかりぞしるしなる。(須磨)

ほんのちょっとのお出ましであっても、こうした旅路をご経験のない気持ちで、心細さも物珍しさも並大抵ではない。大江殿と言った所は、ひどく荒れて、松の木だけが形跡をとどめているだけである。(渋谷栄一訳)

「大江殿」は、伊勢の斎宮が帰京の際にお祓いをする建物です。父桐壺帝亡きあと、政争を危惧した源氏は須磨での隠居生活を選びました。都落ちする貴公子の目には、往時を偲ぶすべもない荒れ果てた「大江殿」が、今の自分の境遇を暗示しているように見えたのでしょう。

この「大江殿」がどこにあったのかというと、一三八一年長慶天皇の作とされる「仙源抄」(『源氏物語』の注釈書)に
「大江殿は渡辺橋の東の岸に昔駅楼ありけり 今も楼の岸という」
とされています。「渡辺橋」は現在のそれとは違って、天満橋と天神橋の間あたりに架かっていたとする説が有力。しかも「楼の岸」ですから、これはズバリ、八軒家南の高台にある「北大江公園」として間違いないでしょう。

つづいて、住吉詣。

御社立ちたまて、所々に逍遥を尽くしたまふ。難波の御祓へ、七瀬によそほしう仕まつる。堀江のわたりを御覧じて、「今はた同じ難波なる」と、御心にもあらで、うち誦じたまへるを(澪標)

御社をご出発になって、あちこちの名所に遊覧なさる。難波のお祓い、七瀬に立派にお勤めになる。堀江のあたりを御覧になって、「今はた同じ難波なる」と、無意識のうちに、ふと朗誦なさったのを(渋谷栄一訳)

住吉詣で偶然に元カノ(明石の上)と遭遇し動揺する源氏。「今はた同じ難波なる」とは、百人一首にもみえる元良親王の歌で、上の句の「わびぬれば今はた同じ難波なる」からとられています。源氏の心中にはもちろん「身をつくしても逢はんとぞ思ふ」という下の句が隠されていることでしょう。

さて、「堀江」ですが、これも現在の堀江(地名)とは違います。「日本書紀」仁徳天皇十一年十月条に「堀宮北之郊原 引南水以入西海、因以号其水堀江」とある、あの「難波の堀江」、掘削された運河の名前です。その運河がその後成長して、今では「大川」になったと信じられています。源氏の頃は、流域に葦の生い茂る島々が散らばって見通しが悪く、澪標(みをつくし)なしでは航路を辿ることも難しかったようです。

仁徳天皇の宮(高津宮)がどのあたりかははっきりしないようですが、上町台地の北の高台にあったとする説が有力です。とすると堀江は、これもズバリ、八軒家かいわいと言い切ってもよろしいかと。


↑五世紀頃の大阪平野。海岸線の復元は梶山彦太郎・市川実「続大阪平野発達史」による(「津の国ものがたり」より)。

それにしても平安後期の八軒家かいわいは、けっこう寂れた場所だったようですな。かつて「難波津」として栄えた八軒家かいわいが勢いを取り戻すのは、中世の渡辺党を経て蓮如の石山本願寺建設を待たねばならなかったようです。(津川)

投稿者 tategaki : 17:11| トラックバック (0)

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