2010年06月30日

六月の購入図書(二)

大阪城天守閣復興70周年記念「テーマ展大阪城の歴史」図録(大阪城天守閣編 二〇〇一)=写真右

「新発見豊臣期大坂城図屏風」(高橋隆博編 清文堂 二〇一〇)=写真左


↑モンタヌス『日本誌』挿絵「大阪城図」
『日本誌』はオランダ人牧師モンタヌスが記した日本の地誌。一六六九年にアムステルダムで初版が刊行された。本の中には、徳川再築大坂城の正確な図が掲載されている。これは、オランダ東インド会社が入手した大坂城の図をもとにオランダ人画家フィングボーンズが描いた「大坂城図」(ハーグ国立文書館蔵)を、さらに簡略化して描き直したもの。モンタヌス自身は来日したことはない。画面の手前が西(大手)側(「テーマ展大阪城の歴史」図録より)。


↑八軒家
八軒家の地名は、この場所に八軒の旅籠があったことに由来すると伝える。豊臣期の八軒家の様子はよくわからないが「石川忠総大坂陣覚書」に「天満町ニも火懸り、又内町八軒家あたりも焼申」と記され、「八軒家」の地名はすでに存在したことが知られる(「新発見豊臣期大坂城図屏風」より)。

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2010年06月28日

六月の購入図書(一)

大林組のハウスオーガン「季刊大林」から五冊(うち一冊は別冊)をチョイスして購入しました。


(写真右から)
「水景の都市」(別冊 二〇〇九)
「城」(ナンバー十六 一九八三)
「出雲」(ナンバー二七 一九八八)
「橋」(ナンバー三 一九七九)
「難波宮」(ナンバー三十一 一九八九)


復元された天守西立面図。宮上茂隆「秀吉築城大坂城本丸の復元」(「城一九八九より」)。

『季刊大林』について
『季刊大林』は1978年に創刊して以来、「わたしたち人間は、かつて何を建設してきたのか、そして未来に何を建設できるのか」ということを、周辺文化と 共に考察してきました。 建設という営みは、人々の夢の実現であり社会の反映です。また、その行為一つ一つが未来を創ります。本誌では、建造物に込められた人々の思いや様々なパ ワーに触れると共に、現代の社会における問題や現象を紐解いていきます。
私達は未来に何が出来るのでしょうか。私達は『季刊大林』を通して、皆様と共に、質の高い環境への手掛かりを探っていきたいと考えております。(大林組)

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2010年06月15日

光源氏の見た八軒家かいわい

源氏物語の主人公、光源氏は京都の外にはめったに足を運ばなかったようです。数少ない例外は、須磨で隠居生活を送った時の道中と内大臣になってからの住吉詣です。その中から、八軒家かいわいの地名が登場するシーンを、二つ抜き出してみましょう。

まず、須磨道中から。

かりそめの道にても、かかる旅をならひたまはぬ心地に、心細さもをかしさもめづらかなり。 大江殿と言ひける所は、いたう荒れて、 松ばかりぞしるしなる。(須磨)

ほんのちょっとのお出ましであっても、こうした旅路をご経験のない気持ちで、心細さも物珍しさも並大抵ではない。大江殿と言った所は、ひどく荒れて、松の木だけが形跡をとどめているだけである。(渋谷栄一訳)

「大江殿」は、伊勢の斎宮が帰京の際にお祓いをする建物です。父桐壺帝亡きあと、政争を危惧した源氏は須磨での隠居生活を選びました。都落ちする貴公子の目には、往時を偲ぶすべもない荒れ果てた「大江殿」が、今の自分の境遇を暗示しているように見えたのでしょう。

この「大江殿」がどこにあったのかというと、一三八一年長慶天皇の作とされる「仙源抄」(『源氏物語』の注釈書)に
「大江殿は渡辺橋の東の岸に昔駅楼ありけり 今も楼の岸という」
とされています。「渡辺橋」は現在のそれとは違って、天満橋と天神橋の間あたりに架かっていたとする説が有力。しかも「楼の岸」ですから、これはズバリ、八軒家南の高台にある「北大江公園」として間違いないでしょう。

つづいて、住吉詣。

御社立ちたまて、所々に逍遥を尽くしたまふ。難波の御祓へ、七瀬によそほしう仕まつる。堀江のわたりを御覧じて、「今はた同じ難波なる」と、御心にもあらで、うち誦じたまへるを(澪標)

御社をご出発になって、あちこちの名所に遊覧なさる。難波のお祓い、七瀬に立派にお勤めになる。堀江のあたりを御覧になって、「今はた同じ難波なる」と、無意識のうちに、ふと朗誦なさったのを(渋谷栄一訳)

住吉詣で偶然に元カノ(明石の上)と遭遇し動揺する源氏。「今はた同じ難波なる」とは、百人一首にもみえる元良親王の歌で、上の句の「わびぬれば今はた同じ難波なる」からとられています。源氏の心中にはもちろん「身をつくしても逢はんとぞ思ふ」という下の句が隠されていることでしょう。

さて、「堀江」ですが、これも現在の堀江(地名)とは違います。「日本書紀」仁徳天皇十一年十月条に「堀宮北之郊原 引南水以入西海、因以号其水堀江」とある、あの「難波の堀江」、掘削された運河の名前です。その運河がその後成長して、今では「大川」になったと信じられています。源氏の頃は、流域に葦の生い茂る島々が散らばって見通しが悪く、澪標(みをつくし)なしでは航路を辿ることも難しかったようです。

仁徳天皇の宮(高津宮)がどのあたりかははっきりしないようですが、上町台地の北の高台にあったとする説が有力です。とすると堀江は、これもズバリ、八軒家かいわいと言い切ってもよろしいかと。


↑五世紀頃の大阪平野。海岸線の復元は梶山彦太郎・市川実「続大阪平野発達史」による(「津の国ものがたり」より)。

それにしても平安後期の八軒家かいわいは、けっこう寂れた場所だったようですな。かつて「難波津」として栄えた八軒家かいわいが勢いを取り戻すのは、中世の渡辺党を経て蓮如の石山本願寺建設を待たねばならなかったようです。(津川)

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2010年06月14日

五月の購入図書

「大坂城の謎」山川行弘(学生社)二〇〇二改定新版
大阪城では地上に露出している石垣石50万個を全部調べて、現存する大阪城が秀吉と はまったく関係のない徳川大阪城(寛永六年製)であることを証明しました。 (山川行弘=恩師を訪ねて【第30回】)

「近世の淀川治水」村田路人(山川出版社)二〇〇九
琵琶湖に水源をもち、大阪湾にそそぐ淀川は、近畿地方のうちで最大の河川である。近世においては、まず瀬田(勢多)川、そして宇治川と名を変え、山城国淀(現、京都府伏見区)で右岸に桂川、左岸に木津川をあわせたのちは淀川と称して、左右両岸に多くの河川の水を受けつつ大阪平野を流下し、大阪湾にそそいでいた。一七〇四(宝永元)年に大和川が付け替えられるまでは、大坂城の北側で、大和川をあわせていた。また、途中でまず神崎川、そして中津川を分流していた。(本書まえがきより)


「大坂城の謎」(左)と「近世の淀川治水」

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