2010年03月26日
「おおさかタイムトンネル浪速写真館」
大阪で上田写真機店を興し、明治から大正にかけて活躍した上田貞治郎氏の写真コレクションを、初めて世に知らしめた読売新の連載を一冊にまとめたもの。読売新聞大阪社会部編・朋興社(一九八五年)。
以下は同書のあとがきから。
アルバムに貼られた写真の舞台は大阪ばかりでなく、京都、神戸、和歌山、東海道沿線、東京と広範囲に及んでいる。しかし、とりあえず大阪の写真にしぼって読売新聞の府下版で連載することになり、五九年一月一日付から「なにわともあれ見なあかん 浪速写真館 上田家のアルバムから」というタイトルで同年十二月二六日まで毎週月曜日付で四十回連載した。本書には、その連載記事のすべてを一分手直し、加筆したうえ収めた。
(以上、引用終り)

↑表カバーは「道頓堀・角座」(明治時代)。

↑同書「八軒家―行き交う三十石船」のページ。

↑右で紹介されている八軒家船宿の写真(部分)。向かって右から「ます家」「嶋屋」「いづみ屋」の看板が見える。この写真は、八軒家かいわいマガジン「新選組八軒家事件簿 京屋忠兵衛物語」でも紹介しています。
上田貞治郎氏および彼のコレクションについて詳しくは↓
大阪市立大学・都市研究プラザ「上田貞治郎写真史料アーカイブ編纂室」
(津川)
投稿者 tategaki : 14:40| コメント (0)| トラックバック (0)
2010年03月15日
「大阪古地図むかし案内」
本渡章著・創元社。副題は「読み解き大坂大絵図」。付録として「貞享四年新撰増補大坂大地図」が綴じ込まれています。ライブラリーに加わりました。

↑大阪の古地図を題材に、「読み解きスタイル」という見応えと読み応えを兼ね備えた独自の趣向で、古今の地誌や生活文化を探る案内書(同書帯書きより)。
残念ながら「八軒家」に関する項目はないのですが、「第二章古地図読みくらべ」の一節にかいわい情報として一つだけ、「渡辺津と熊野古道」がとりあげられています。

↑「浪華往古図」
宝暦六年〈一七五六〉刊行。近世以前の大坂の姿を想像をまじえて描いたもので、江戸時代の好事家たちの興味がどこにあったかを知る手がかりとして面白い(本書より)。この図は筑波大学図書館データベースより。ここには拡大表示できる精細画像があります。
〈八軒家かいわいマガジンの関連記事〉
■蔵屋敷■
■堂島米市■
「中之島かいわい蔵屋敷ものがたり」
■渡辺の津■
「中世の八軒家は渡辺水軍の根城だった!」
浪華往古図よりも古い室町時代大坂図「難波之古図」掲載。

↑当マガジンでは、拡大機能で「ワタナベ橋」付近をじっくりご覧いただけます。見比べてください。
■熊野街道■
■坐摩神社■
「後鳥羽院も藤原定家も、ここで一服。平安時代の熊野詣もここが起点?」
熊野街道の起点は、わが八軒家かいわい。坐摩神社行宮もこのあたりにあります。

↑熊野街道の起点、土佐堀通りと御祓い筋(旧)の角に、平成二年(一九九〇年)大阪市が設置した案内標識。
ところで、本書でも紹介されている坐摩神社の「坐摩」は、さて、何と読むのでしょう?

↑坐摩神社行宮(大阪市中央区石町二)
■大塩の乱■
「ドキュメント!大塩平八郎の乱」
本書にある練習問題「大塩の乱」の模範回答がここにあります。

↑大塩軍の進路。×印が大塩軍と幕府軍の交戦場所。当サイトで拡大してご覧になれます。
(津川)
投稿者 tategaki : 13:47| コメント (0)| トラックバック (0)
2010年03月11日
「米朝ばなし」「大阪大空襲」「水都大阪盛衰記」
標題の3冊を八軒家かいわいライブラリーに加えました。

「米朝ばなし 上方落語地図」桂米朝著(毎日新聞社)
「大阪大空襲 大阪が壊滅した日」小山宗仁著(東方出版)
新なにわ叢書3「水都大阪盛衰記」旭堂南海ほか(ブレーンセンター)
「米朝ばなし」の表紙を飾る浮世絵は、浪花百景に描かれた「四天王寺」森芳雪画。

↑■名所名:四天王寺■現在の市区町村:天王寺区
号は荒陵山、敬田院と称す。難波寺、難波大寺、御津寺などともいう。創建は聖徳太子。金堂、講堂、五重塔を備えた大寺で、年中参詣者は絶えない。特に4月の涅槃精霊会、春と秋の彼岸会、8月の千日詣は雲霞の如く参拝者が押し寄せる(大阪府立中之島図書館「錦絵にみる大阪の風景」より)。
「水都大阪盛衰記」のカバー表「浪花川崎鋳造場の風景」長谷川小信画、カバー裏に「浪花大湊一覧」橋本貞秀画。

↑■名所名:造幣局■現在の市区町村:北区
幕末に、日本小判の流出を防ぐために久世治作が行った貨幣鋳造の建議に基づき、五代才助らが長崎のイギリス商人グラバーを通じて、銀貨鋳造機を購入。そ の機械を据える場所として、水利や交通の便などから選ばれたのが、川崎御蔵の跡地、現在の造幣局であった。慣れないレンガ造りの西洋建築に工事は難航したが、新たに選ばれた造幣頭の井上勝、技師長のキンドルのもと、明治4年(1871)2月に開場。造幣局においては建物だけでなく、貨幣の鋳造方法なども西洋式のものを採り入れ、職員は断髪、廃刀、洋服を義務付けられるなど、大阪の西洋化を推し進める効果もあった(大阪府立中之島図書館「錦絵にみる大阪の風景」より)。

↑「浪花大湊一覧」(大阪府立中之島図書館「錦絵にみる大阪の風景」より)。錦橋にある「浪速の橋ギャラリー」には、この絵がタイル画となって展示されています。詳しくは→
(津川)
投稿者 tategaki : 10:45| コメント (0)| トラックバック (0)
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