2009年04月03日

妻の追悼に一日千句!矢数西鶴の誕生です。

★八軒家タイムトラベル●延宝三年(一六七五年)四月八日

 こんな話が残っています。伏見の京橋に油掛け地蔵で有名な西岸寺があります。その寺の任口(にんく)上人(芭蕉とも親交があったようです)を訪ねた西鶴が、その任口上人を詠み込んだ「軽口にまかせてなけよほとゝぎす(「任」と「口」が盛り込んであります)という句を発句にして伏見京橋から八軒家までの三十石船の船中で百韻を作ったというもの。かなりな速吟です。

 井原西鶴は寛永十九年(一六四二年)、大阪の鑓屋町(やりやまち)の生まれ。大坂城から西へ伸びる通りです。大阪城の周辺は東横掘とか西横掘のあたりとは違ってにぎやかなところではありません。そんなところですからあまり裕福な商家ではなかったはず。刀剣類を商っていたようです。年齢でいうとちょうど松尾芭蕉の二つ上、近松門左衛門の十一才年上にあたります。


↑浪花百景「天満天神地車宮入」(一養齋 芳瀧画)

 若い頃から俳諧をたしなんでいましたが、寛文十三年、大坂天満宮の連歌所宗匠だった西山宗因の弟子となり、一字貰って西鶴と名乗ります。
当時の俳壇の主流は松永貞徳を始祖とする伝統派の「貞門派」。それに反旗を翻したのが西山宗因を中心とする談林派グループでした。笑いと風刺や機知を重視した作風で一般庶民の人気を集めます。元禄のバブルがピークを迎える頃の世相にもマッチしていたのでしょう。


↑井原西鶴像(生國魂神社内)

 延宝三年(一六七五年)四月三日、西鶴は最愛の妻に先立たれます。ときに西鶴三十三才、妻二十四才。あとには三人の子が残されました。
 悲嘆にくれた西鶴でしたが、その五日後の四月八日、夜明けから日暮れまで亡き妻に捧げる追悼句を次々と詠みます。わずか十数時間で一千句!。それは、こんな風に始まります。「脈あがる手を合してよ無常鳥/次第に息は短夜十念〜」。この年の暮れには西鶴は家業を手代に譲り、剃髪して、以降盲目の娘ほかの面倒を見ながら暮らします。


↑「花暦浪花自慢」より「住吉初卯の日参」(芳豊画)。参詣客が引きも切らずという住吉大社。祭祀は年間七十五にも及んだ。

 こんなことから速吟が得意なことに気がついた西鶴は、当時流行していた矢数俳諧に挑戦します。これは三十三間堂で武芸者達が一昼夜で何本の矢を的に当てられるかを競う「大矢数」にヒントを得た俳諧興行でした。
延宝五年三月に行われた興行で蕪村は一昼夜で、なんと千六百句を詠みます。それに対抗して俳人大淀三千風が一昼夜二千八百句詠み、記録を塗り替えます。ところが西鶴は翌年五月に四千句、貞享元年(一六八四年)六月五日には住吉大社で、なんと一昼夜二万三千五百句という途方もない記録を打ち立てます。単純に計算しても一句三秒という途轍もない速さ。記録者は四人いましたが、とても追いつかず、棒線を引いて句数を記すのがやっとだったそうです。


↑「好色一代男」より、世之介七才の逸話。

 これで矢数俳句はもう終わりだと、以後西鶴は俳諧から離れ、天和二年(一六八二年)「好色一代男」を書きあげます。これが人気を呼び、物語作家として売れっ子になります。以降「好色五人女」などの好色物、「武道伝来記」などの武家物、「日本永代蔵」などの町人物で数多くの作品を残し「浮世草子」というジャンルを確立してゆくのです。


↑大阪中央区「誓願寺」にある西鶴の墓。

 こうして最後となった代表作「世間胸算用」を元禄五年一月に刊行。その翌年元禄六年(一六九三年)八月十日、西鶴はその生涯を終えます。享年五十一才でした。墓所は中央区の誓願寺。 (平野)

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投稿者 tategaki : 15:28| コメント (0)| トラックバック (0)

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