2009年03月30日

三十石船

★「落語のルーツ」脚注3

「三十石船」は大阪から京都まで、ほぼ十里(四十キロ)の淀川を往来していました。朝に大阪を出て夕方伏見に着く舟を「昼舟」、夕方出て翌朝まで乗るのを「夜舟」と呼びます(伏見から下る舟も昼舟と夜舟があります)。

米三十石相当の積載能力を持った船のことですが、江戸時代では旅客を輸送する乗合船をさすようになりました。
*石(こく)というのは尺貫法の体積の単位で、百升に当たります。三十石だと一升瓶三千本。一石は当時の大人が一年間で食べるお米の量でした。


乗船場は伏見が「京橋(寺田屋浜)」「蓬莱橋」「阿波橋」「平戸橋」の四ヶ所、大坂が「八軒家」「道頓堀」「東横堀」「淀屋橋」の四ヶ所でした。天保十年(一八三九年)には百七十一艘の三十石船が淀川を運行していたといいます。多い時にはざっと一日一万人が往来していたわけですから、当時のもっとも重要な交通機関であったわけです。

 乗合船の場合の大きさは長さ二十七メートル、幅三・六メートル。乗船できる人数は乗客二十八名、船頭・船子四名でした。ざっと乗客のためのスペースが十五坪、畳三十枚程度ですから、満席だったら、荷物やなんやかやを考えるとゆったりくつろげる余裕はありません。

 下りは六〜八時間ですが、上りは「曳き船」といって川岸から船を曳いて上っていきます。川の両岸から船を曳かなければならない場所が九ヶ所あり、そこでは船子が岸に上がり、綱引き人足と一緒に船を曳きました。ほぼ一日がかりの旅でした。
 船賃も下りは七十二文でしたが、上りは百七十二文(享保の頃)。下りは船で、帰りは京街道から陸路でという旅人も多かったようです。

 三十石船での伏見ー大阪の道中案内書が当時、いろいろありました。そのうちの一つが、天宝十四年(一八四三年)頃の「大川便覧」です(左の絵図)。幅18.6センチ、長さはなんと460センチもあります。
 喜六や清八になったつもりで、たどってみてください。伏見から八軒家までの下り舟です。
三十石船の舟唄をお聞きになりながらゆっくりとご覧ください。


















 さてお楽しみいただけましたでしょうか。では次は八軒家から伏見までの上り。今度は曳き舟になります。
(この大川便覧は上下どちらからでも見れるつくりになっています。ガイドブックとして使い勝手のよさが配慮されているわけです。きめ細かいですね)。


















 以上、大川の下り、上りの三十石船の道中でした。
                             (平野)


投稿者 tategaki : 14:16| コメント (0)| トラックバック (0)

米沢彦八(?〜1714)

★「落語のルーツ」脚注1

 大阪における落語の祖。道頓堀や天王寺で辻噺を行うほか、生國魂神社境内の掛け小屋で「当世仕方物真似」という看板を上げて興業した。後に、上方では軽口咄のことを「彦八咄」というようになった。

 近松門左衛門の「曽根崎心中」の中の田舎者が見物に行ったのが、この彦八の物真似。

 初代彦八は正徳四年(一七一四年)四月、名古屋巡業中に客死。名跡は四代目まで続いた。

 毎年、九月の第一土曜から日曜日には、上方落語家によるファン感謝デー「彦八まつり」が開催されている。

*「上方芸能事典」(森西真弓著 岩波書店刊)

投稿者 tategaki : 11:38| コメント (0)| トラックバック (0)

初代桂文治(?〜1816)

★「落語のルーツ」脚注2

本名伊丹屋宗兵衛。江戸時代寛政期、初めての落語の定席を坐摩神社内に開いた。芝居噺を話芸としてまとめあげたのも大きな功績の一つ。初代桂文吾や落語作家など立派な門人を数多く輩出した。
 桂文治の名跡は三代目から東西に分かれた。上方の文治は七代目まで続いたが、その後は文治の名前は東京のみとなった。

 上方最後の七代目文治の引退興行は「三十石船を作って、それに乗った文治を噺家の幹部たちが大勢で引いてゆく」というもの。引き祝いという趣向で、満場大拍手だったという。南の演芸場で行われた。
*「上方芸能辞典」(森西真弓編 岩波書店刊)

投稿者 tategaki : 11:12| コメント (0)| トラックバック (0)

2009年03月27日

落語のルーツは船場の坐摩神社境内に!

八軒家タイムトラベル●一七九八年

 豊臣秀吉に仕えた曾呂利新左衛門はお伽衆(そばにいていろんな話を披露する人)でした。ときに滑稽な落し噺などもしたと言われます。続いて一六七三年頃には京都や大阪で辻ばなしといわれる庶民的な演芸が始まります。

 その後、米沢彦八(脚注1)などが生國玉神社や御霊神社の境内に小屋を設けて、芝居がかった噺をしたり、幇間が花街の座敷で噺を演じたりということで辻ばなしが発展してゆきました。

 本格的に落語が登場するのは、一七九八年。初代桂文治(脚注2)が船場の坐摩神社境内に寄席を設けて落語を聞かせたのが始まりです。この桂文治は二代目は息子が継ぎましたが、三代目は大坂と江戸で別々に襲名され、大阪文治、江戸文治の二人になります(一八三〇年代)。


↑坐摩神社。天正十一年(一五八三年)、豊臣秀吉の大坂城築城に当たり現在の久太郎町に遷座した。船場への遷座後は、大坂の中心ということもあり多くの物売りや見せ物が門前に集まったという。

 ということで上方落語が江戸落語の生みの親。「時そば」(上方では「時うどん」)、「長屋の花見」(同「貧乏花見」)、「花見の仇討」(同「桜の宮」)、「らくだ」など古典落語のルーツのほとんどは上方なのです(圓朝の怪談噺などは違います)。

 そんな上方落語でも、演じるのに一時間はかかるといわれる大ネタが「三十石船」(三十石船夢の通路とも呼ばれます)。京都見物を終えた喜六と清八が伏見の寺田屋の浜から八軒家まで、三十石船に乗っての珍道中。途中に入る船頭唄なども聞きどころです。この船頭唄、いまで言えば観光バスのガイドさんの案内も兼ねていたようです(お聞きになりたい方はこちらでどうぞ)。


↑伏見京橋(寺田屋浜) *淀川両岸一覧より


↑八軒家浜 *淀川両岸一覧より

 このネタは大御所の落語家はほとんどが持ちネタにしています。噺が長い。演じ分ける登場人物も多い。船頭唄などもこなさないといけない。なかなか難しい演目でもあります。もともとは前座が手がけていたネタをこの大ネタにまとめあげたのが初代の桂文枝。以後十八番にしていましたが、ある日、金策に困ってこのネタを質に入れた。それからは寄席では一切この噺ができなくなりましたが、贔屓客が質受けしてまた演じられることになったという逸話が残っています。
(二代目 桂小南の「三十石船」がこちらで聞けます)。

 この噺の後半で、船中で五十両の金が盗まれる騒動が起こります。船頭の機転で無事盗人はつかまりますが、これにはちょっと裏話があります。武芸家の物外和尚は一八六〇年の九月、尾道から大坂へ来て八軒家から三十石船(脚注3)で伏見へ向かいます。その途中、ふと眠ってしまった間に三十両の金子を盗まれたことに気付きます。枚方へ着船した際、一人の男がなぜか下船していることが分った物外和尚は理由を言わずに船頭に船を大坂へ下るように逆にして停泊させます。そこへさきほどの盗人がそれとも知らずに乗船してきて…という逸話です。こんな話もこの落語の噺に取り込んであるのかもしれません。


↑武田物外肖像

 この物外和尚は俳句も巧みで「皆起きて酒くらわんか秋の月」といった句も詠んでいます。ひょっとするとその時の句だったのかもしれません。(平野)

★お知らせ
八軒家のイタリアンレストラン「まりあん」で四月十一日(土)に林家染二師匠の落語会があります。演目は「三十石船夢の通路」。これは見逃せません。
*ご来場ありがとうございました。好評裡に終了しました。

投稿者 tategaki : 18:38| コメント (0)| トラックバック (0)

2009年03月26日

石川五右衛門の秀吉暗殺未遂事件

八軒家事件簿●文禄三年(一五九四年)八月二十三日

 ご存じ、石川五右衛門は安土桃山時代の盗賊。当時日本に貿易商として滞在していたアビラ・ヒロンの記した「日本王国記」に「石川五右衛門という盗賊を首領とする盗賊団が捕えられ、京都の三条河原で首領とその家族が生きたまま油で煮られ、あとは磔になった」という記述があります。よほどの凶悪犯であったことに違いはありません。


↑「石川五右衛門」歌川国貞画。

 大盗賊、石川五右衛門がその時代に存在したことは確かですが、その生まれや悪行の数々については諸説あり、いずれも確かなものではありません。でもそういってしまうとそれだけでお終い。ここは諸説を信じて当時の状況を再現してみましょう。

 「絵本太閤記」(一八〇二年刊)によると、五右衛門は河内国石川村の生まれ。十七才で伊賀に渡り忍術を習う。その忍術を巧みに操り、つぎつぎと悪事を重ねていきます。
 一方、秀吉は奥羽征伐も終えて文禄三年二月二十七日、吉野へ千本桜の花見へ出かけ三月六日、大坂城へ戻ります。文禄元年(一五九二年)には豊臣秀頼が生まれています。姉の子である秀次を養子にしていましたが、実子秀頼が生まれたことで秀次を次第に疎ましく思うようになっていました。
 関白秀次を担ぐ木村常陸介派と秀頼を担ぐ石田光成派との内紛がいつ起きてもおかしくない状況です。

 そんな時期、文禄三年八月二十三日、木村常陸介から秀吉暗殺の依頼を受けた石川五右衛門は秀吉の居城に忍び込みます。枕元まで近づいたところで香炉の千鳥が鳴き出して、五右衛門はお縄となってしまいました。五右衛門は翌日の二十四日に処刑されます。翌年八月には関白秀次が切腹に。妻妾ほか一族の四十余名は三条河原で処刑されています。

 「絵本太閤記」では居城は伏見城とされていますが、いつ内紛が起こるか分らないこんな時期に秀吉が伏見城に隠居していたとは考えにくい気がします。ここは我らが八軒家かいわいの大坂城での話だったと勝手に想像させてもらうことにしましょう。となると五右衛門は京都から闇にまぎれて舟で大川を下ってきて八軒家あたりから大坂城へ向かったのかもしれません。


↑秀吉は文禄三年、諸大名に命じて大工事の末に絢爛豪華な伏見城を築き上げた。五右衛門が処刑された年に当たる。

秀吉の命を救った「千鳥の香炉」はご覧のように、底の中央に高台があって脚が宙に浮くのを千鳥に見立てて名付けられたもの。秀吉から家康へ伝来し、現在は徳川美術館の所蔵となっています。(平野)


↑青磁香炉 銘 千鳥(徳川美術館蔵)


投稿者 tategaki : 17:41| コメント (0)| トラックバック (0)

2009年03月23日

芭蕉翁、八軒家での憂鬱

八軒家タイムトラベル●貞享五年(一六八八年)四月十三日

「八軒屋久左衛門方に逗留しているが、狭くておまけにやかましくてしょうがない。仕方なくあちこち見物などに出掛けては過ごしている」。芭蕉は貞享五年(一六八八年)、江戸から「笈の小文」の旅へ出て、和歌の浦、奈良を経て大坂は八軒家に宿を取ります。一週間、久左衛門という宿に逗留しましたが、その際に伊賀の卓袋という弟子への手紙にこんな風に愚痴をこぼしています。

 八軒家は水上交通の要。三十石船が行き交い、宿も商人たちでごったがえしていたと思われます。選んだ宿が悪かった。多分、同室に何人もの泊り客が詰め込まれていたんでしょう。ということで、芭蕉の大坂の第一印象はかなり悪かったようです。この宿に四月十三日から十八日まで泊り、翌十九日に須磨・明石へと旅立ちました。

 その後、更科紀行おくのほそ道の旅を終えて、六年後の元禄七年(一六九四年)九月。芭蕉は再び重い腰を上げて大坂へ向かいます。
 当時の大坂の俳壇事情は、小西来山派が大きな勢力をもっており、その派のリーダー格が椎本才磨でした。才磨は芭蕉がまだ桃青と名乗っていた頃の先輩格の俳人。大坂では蕉門の俳人はまだまだ数が少なかった。とはいうものの之道という俳人が芭蕉を慕って弟子入りしていました。

 一方、近江の膳所には芭蕉も認める若手の弟子、洒落がいました。この野心に溢れた二十代半ばの青年は膳所衆の引き留めるのも聞かず、大坂進出を狙って大坂玉出に居を構えます。
 面白くないのが之道です。洒落に弟子を取られたりといった経緯もあり、ついに膳所衆ともはかりあって対抗します。


↑蕪村による芭蕉像

 そんな諍いを納めようと大坂へ芭蕉が向かったわけです。二ヶ月前には二人の子をもうけたつれあいの寿貞尼が亡くなっています。近江の膳所は洒落の件でぎくしゃくしています。大坂では弟子の間での勢力争い。才磨から「こんな悶着一つ解決できないのか」と馬鹿にされそうです。自分の弟子たちを持っていかれる心配もあります。


↑「浪花百景」より「増井浮瀬夜の雪」。

 そんなこんなで芭蕉のストレスは大変なものだったに違いありません。九月八日に大坂へ入り、しばらく洒落の家に滞在し、反目する弟子二人の仲を取り持つために句会を何回か開いています。二十六日には大坂清水茶屋四郎兵衛の晴々亭(浮瀬亭)で洒落、之道も加えて歌仙を巻きました。二十八日には翌日の句会の発句「秋深き隣は何をする人ぞ」を遣わしたあと、激しい下痢で床に臥します。容態がさらに悪化したので、明くる日には、宿泊していた之道亭から花屋仁左衛門の貸座敷(久太郎町御堂前)に病床を移します。

 そして病状が回復しないまま十月八日、
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
という病中吟を詠みます。これが辞世となりました。


↑「芭蕉翁絵詞伝」久太郎町の花屋仁左衛門貸座敷に臥す芭蕉とその門人たち

 十二日午後四時ごろ永眠。五十一歳の生涯でした。去来、其角、支考、丈草などが同行し、亡骸は夜舟で土佐堀川を通って淀川を上り、翌十三日の朝、伏見から近江膳所木曾塚無名庵へと遺言通り運ばれました。芭蕉の小さな墓が、いまも膳所義仲寺の木曾義仲の大きな墓の隣にあります。

 洒落は芭蕉の病中から臨終まで、いずれの席にもいませんでした。一方、之道はずっとそばにいて看病しています。世評では洒落の不実さをなじる声もあります。しかし、どうも之道の策略で洒落に連絡がされなかったというのが真相のようです。芭蕉の臨終まで弟子たちのいがみ合いは続いていたのです。

 冒頭の手紙のように芭蕉にとって大坂はどうも苦手な土地柄だったのかもしれませんが、皮肉なことに晩年の芭蕉の名句の数多くが大坂で詠まれています。

此の道や行く人なしに秋の暮
この秋は何で年よる雲に鳥
秋深き隣は何をする人ぞ
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る


↑芭蕉終焉の地碑は御堂筋の南御堂前の東側緑地帯にあります。
                               (平野)

(参考資料)
芭蕉晩年の苦悩」(金子 晋著 創文社刊)

投稿者 tategaki : 15:32| コメント (0)| トラックバック (0)

2009年03月13日

春爛漫です。文明開化の八軒家

花も真っ盛り盛りの明治四年四月四日、日本、そして大阪は、
近代国家、産業都市への第一歩を踏み出しました。
大川の造幣局の操業です。
その日は、天保山の停泊中の軍艦や大阪城内の大阪鎮台から
祝砲があがり、夕方には大花火―。
川べりを埋め尽くした群衆から大歓声が上がりました。
大阪の文明開化、いよいよ幕開けです。


↑浪花三十六景「川崎鋳造場」(二代目貞信画)より。造幣寮は断髪、廃刀、洋服を義務付けた日本最初の職場だった。

 錦絵の右下に蒸気船が見えます。当時、川蒸気とも外輪船とも呼ばれました。この蒸気船が八軒家と伏見を往復するようになったのが明治三年です。まだ三十石船も蒸気船に対抗して定期運行していました。
 さらに桜の頃ともなると上方落語の「百年目」に出てくるような、桜の宮へ花見に向かう屋形船で混み合います。


↑「浪花川崎鋳造場の風景」(二代目貞信画)より。大川の両岸には桜並木。大阪人の花見と言えば大川べりと桜の宮が一番の人気だった。

 明治二年二月には大阪城の青谷口に陸軍の武器工場である造兵司(のちの大阪砲兵工廠)も設けられます。まだ鉄道が整備される前ですから、工事も水運を頼るほかありません。大川は大賑わい、大混乱だったことでしょう。

 そしていよいよ造幣寮(現在の造幣局)の設置です。新政府は明治元年(一八六八年)十一月、天満橋北詰から源八橋西詰(現在のOAPあたり)まで、五万六千坪(現在の造幣局の二倍、甲子園球場のほぼ五倍に相当)もの敷地に、近代的な造幣工場の建設を開始します。

 このあたりは、信長の弟、織田有楽斎の別荘などがあったり、その後藤堂藩の蔵屋敷があったりした景勝地であり、また八重桜の名所でもありました。造幣寮の工事を開始する頃には大阪城内外の建物の補修などの資材置場となっていました。
この地が選ばれたのは、空き地があったことが第一ですが、やはり水運の便。中之島や難波も候補に挙がりましたが、当時は輸送手段と言えば船しかなかったこともあって大川べりの現在の場所が選ばれました(正門は川の真ん前にありました)。


↑造幣寮建設の技術指導に当たった「お雇い外人」たち。
*「はじまりは大阪にあり」(井上理津子著 ちくま文庫)より

 蒸気機関をはじめ、溶鉱炉、圧延機、印刷機など機材一式が、ほぼ閉鎖状態にあった香港のイギリス造幣局から船で到着。アイルランド人Tウォートルスの設計・監督のもと金・銀貨幣の鋳造工場などが着工されました。そして二年の歳月、九十五万両以上の工費を費やして明治四年四月四日(旧暦二月十五日)、いよいよ竣工となります。大川べりの桜も満開です。

 当日は右大臣三条実美ら政府高官、造幣寮幹部、諸外国公使ら約百名が列席して創業式典が行われます。式を終えて、川沿いの正門前での記念撮影のあと、大阪城の大阪鎮台から二十一発の祝砲が放たれ、天保山沖に停泊中の軍艦「富士」や外国軍艦からもそれに応えて祝砲が発せられます。そのあと花火が何発も上がり、大川を彩ります。まさに国家的な大事業の華々しいスタートとなりました。


↑浪花新景「川崎金吹場」(貞直画)より。造幣寮は数々の錦絵に描かれ、絵はがきにもなっている大阪随一の観光名所でもあった。


↑現在の造幣局(平成二十一年四月五日撮影)

 翌日から三日間、構内は一般公開され、連日押すな押すなの大盛況。まず見物客の度肝を抜いたのが三十メートルにも及ぶ巨大煙突。鉄骨赤レンガの本館、金色に輝く菊の大紋章のある正面玄関、コロニアル式の応接室…。明治政府が国威をかけた大規模な洋式建築でした。
 この応接室は明治天皇が「泉布観」と命名され、外国からの貴賓の迎賓館として使用されました。


↑泉布観(せんぷかん)。総レンガ造りのコロニアル風様式。明治五年に明治天皇が行幸された際に命名された。「泉布」は貨幣、「観」は大きな館という意味。

 同年八月には造幣寮内の石炭ガスで作ったガスを使ったガス灯が六百八十六基が一斉に灯ります。これまでろうそくや行燈しか知らなかった目にはまさに文明開化の象徴のように思われたことでしょう。

 造幣寮では自前の技術で造幣を行うため、金銀地金を分析精製するのに必要な硫酸をはじめソーダ、ガス、コークスを製造したり、反射炉での銅の溶解なども行いました。これらの技術が民間に伝授され、その後、大阪が商都から産業都市へと大躍進を遂げる起爆剤となったわけです。

 ちなみに春の風物詩となった「造幣局の通り抜け」は明治十六年。時の造幣局長、遠藤謹助が「花見を市民にも」と花盛りの頃に構内の桜並木を公開したのがはじまりです。この桜は旧藤堂藩蔵屋敷(泉布観の北側)で育てていた里桜を移植したもの。品種も豊富で他では見られない珍しい品種が集められていました。その後、煤煙による枯死や昭和二十年の大阪大空襲での焼失がありましたが、その都度桜樹の補充が行われ、現在に至っています。(平野)

〈参考資料〉

新修大阪市史第5巻」
大阪市の歴史」(大阪市史編纂所編)創元社
百年の大阪1幕末維新」(大阪読売新聞社編)浪速社
はじまりは大阪にあり」(井上理津子)ちくま文庫
写真集なにわ今昔」毎日新聞社


投稿者 tategaki : 17:50| コメント (0)| トラックバック (0)

2009年03月03日

住吉神社は、ここ石町にあった?山根徳太郎博士説。

 
熊野古道の入り口の通称、おはらい筋を西にくだると、石町の中小ビルの陰に、ひっそりとたたずむ目立たない小さな社がある。ふだん参詣する人はほとんどいない。
社殿の前の石碑に「坐摩神社行宮」とある。坐摩はイカスリと読む。

おどろいたことに、仁徳天皇の御代に、ここに、「すみよっさん、」つまり、あの住吉大社が鎮座ましましていたらしいのだ。
住吉大神は、かつては、ここに鎮座し、その後現在の住吉へ遷座した、という興味深い説を偶然ネットで発見した。
郷土史にはずぶのしろうとのぼくだが、あてもなくネットでサーチしていると、まったく未知の研究者?の思わぬ卓見に出会い、興奮することがある。

この説は、その後、あの難波京を発掘された山根徳太郎博士が、もう70年も前に、古文書を読み解いてくわしく論証されていたのを知った。古代史好きだった亡父の蔵書のなかに、たまたま山根徳太郎著「難波王朝」(昭和44年 学生社刊)を見つけ、その一節の 住吉大社の位置 を読んで、ぼくも驚いた。

その説とは、つぎのようなものだ。
住吉大社神代記」と呼ばれる古記録が住吉神社に所蔵されている。
山根博士は、克明にこの記録を調べ、住吉大社が現在の社地に固定する前に、幾たびかその位置を変えている。とし、さらにこう述べている。

「神代記にしるされた神話から、わたくしは、難波の地のあたりに、この神話の趣旨に合う土地を、後年の八軒家の船泊まりの背後の丘陵地、上代から中世を通じて、坐摩の神の鎮まる社の所在した地域を、最初に住吉の大神の示現し、祭祀を受けた場所と想定したのである。その場所ならば、大御栄の大津ということばにもあてはまるし、そこからは、難波の入り江、清澄な流れと行き交う船をみまもることもできるだろう。」

澄んだ江を意味するスミノエも、ここの風景から生まれたとし、ここがまた応神天皇の大隈宮オオスミノミヤが営まれた地としている。

「住吉大社神代記」には、住吉の子神様の首位に名を連ね われは住吉の大神の御魂ぞ、為婆天利の神、亦猪加志利乃神と号く という託宣があったと伝えている。これによると、住吉の神と坐摩の神とは同体ということになり、『古語拾遺』の伝えによって、坐摩の神域は往年そこが皇居として考えられていた日のあることが察せられる。住吉の三神、住吉の大神と神宮皇后は深く結ばれたとなっている。大神はつねに皇后をその神人(ヨリマシ)として現れたのである。



↑難波宮址現状図を作成中の山根博士  *「難波王朝」(学生社刊)より


ちなみに、住吉大社の神主、また、坐摩神社の当初の神主が津守宿禰の名で呼ばれていた。このかいわいは、西成郡津守郷とよばれていた。ただ、本は天神橋南詰めあたりに所在したと考えられる住吉神社が、そこからはるか8キロも離れた現在の地に移ることになった理由ははっきりしてしない。このように、山根博士は述べている。

ぼくの素人考えでは、ここ八軒家浜から熊野街道につながる筋を、「御祓い筋」と呼ぶが、これは、住吉神社の夏祭り「おはらい」に通ずるのではないか。(南斎)

投稿者 tategaki : 15:30| コメント (0)| トラックバック (0)

Syndicate this site (XML)

Powered by
Movable Type 3.21-ja

All Rights Reserved, Copyright (C) 2012, NIPPON SP CENTER, Co.,Ltd. & SKYARC System Co., Ltd,