2009年02月27日
蕪村の謎。故郷「毛馬」との微妙な関係
なぜ蕪村は「春風馬堤曲」であれほど
懐かしんだ故郷の毛馬を
一度も訪れることなく逝ったのかー。

↑「浪花百景 毛馬」(芳雪画)より。毛馬は淀川が中津川と分岐して大きく曲がってゆくところの左岸にある。対岸の長柄とは渡しで結ばれていた。
しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり
ご存じ、蕪村辞世の句です。天明三年(一七八三年)十二月二十五日の未明、京都の自宅で、この句を吟じたあと眠るようにして亡くなりました。享年六十八才。病勢が悪化した際、急遽蕪村の姉二人が呼ばれたと几菫の「夜半翁終焉記草稿」にあります(すぐ臨終の床へ駆けつけたのですから、毛馬からの可能性が高いと思われます)。
蕪村が毛馬を出たのは二十才頃ですから五十年近く経っています。おそらくはこの時がそれ以来の初めての対面だったと推測されます。

↑佛光寺通烏丸西入る南側にある「与謝蕪村宅跡」の碑。
なぜでしょう。享保二十年に江戸へ下って俳句修業を積み、寛延三年(一七五〇年)からは京都に居を構えていますが、故郷を出てから以降亡くなるまで毛馬を訪れた形跡がありません。姉たち親族がいたのですからこれは少し気になるところです。
蕪村が弟子に宛てた手紙で「自分の故郷は毛馬だ。幼いころ、毛馬の堤で遊んだものだ」と記していますから、毛馬が生誕の地であることは間違いありません。でもこの手紙のほかには蕪村が近しい人に故郷のことを語った記録はありません。
蕪村は享保元年(一七一六年)、摂州毛馬村生まれ(丹後の与謝村とか摂津天王寺村だという説もあります)。天満橋から川崎、源八の渡しを経て、桜の宮を過ぎて、しばらくいくと毛馬。蕪村のふるさとです。
毛馬は幕府直轄の純農村でしたから蕪村の生家も農家であったことは間違いありません。両親については記録がなくあくまで伝承ですが、母は丹後国与謝郡の人で、名は「げん」。毛馬村の村長である北国屋吉兵衛のもとへ奉公に出たが、主人の手がついて妊娠し、故郷の与謝に帰って子を産んだ。それが蕪村だというものです。
俗説の域を出ないとはされていますが、蕪村が故郷のことを語らないことと合わせて考えると興味深い説ではあります。父となんらかの確執があったのかもしれません。
その母と蕪村は十三才の時に死別しています。前述のように弟子への手紙で「毛馬の土手で友達とよく遊んだ」と書いていますから、それまでは蕪村は毛馬で大切に育てられていたはずです。でも、その後、享保二十年(蕪村二十才)、毛馬を出て江戸へ向かうまでのことはなにも分っていません。ちょうど享保の飢饉(一七三二〜三年)のあった数年後ですから、それも関係あるのかもしれません。一体、蕪村に、そして毛馬村にどんな事件があったんでしょうか。

↑淀川両岸一覧、下り船之部より(松川半山画)。淀川が右へ長柄川を分かつところ。ここに、毛馬より長柄村へ渡る「毛馬のわたし」があった。毛馬は、この図の下側(東南方)。
春風馬堤曲が世に出たのは安永六年(一七七七年、蕪村六十二才)。浪速に奉公に出た若い娘が藪入りで浪花橋の奉公先から故郷の毛馬へ帰る道中を俳句や漢詩を交えて詠んだもの。
やぶ入や浪花を出て長柄川
春風や堤長うして家遠し
と始まります。この堤は「馬堤」ですから毛馬の堤です。では長柄川はどの川をいうのでしょうか。浪花橋(難波橋)から帰ったというのですから、これは今の大川も含めて淀川を指しているのでしょう。となると八軒家あたりも通ったに違いありません。
蕪村の望郷の思いが溢れた作品ですが、故郷への懐かしさを表したのはこれが最初で最後となります。ちょうど娘を嫁がせた時期ですから、そんなことで淋しさをまぎらわすための作品かもしれません。
この年の四月十三日に蕪村は几菫と浪花に下っていますが、すぐに兵庫の布引の滝へ弟子たちと出掛け、十九日には舟で京都へ帰ってしまいます。
翌年(一七七八年)にも蕪村は同じく几菫と浪花に下っています。記録によると三月九日、昼舟で伏見を出発、翌朝に大坂に着いたとあります。下り舟からは毛馬の菜畑がひろがる夕景が見えたに違いありません。
その日は弟子の大江丸の案内で網島へ。網島は近松門左衛門の「心中天網島」でおなじみのところ。現在の川崎橋をちょっと北へ上がったあたり。眼前の大川にはひっきりなしに舟が行き交い、東には信貴山や生駒山の山並みが一望できる景勝地です。

↑「浪花百景 あみ嶋風景」(国員画)より。「摂津名所図会」では「難波最上の名境なるべし」と絶賛されている。

↑「浪花百景 さくらの宮景」(国員画)より。「摂津名所図会大成」に「浪花において花見第一の勝地といふべし」と記されている。
そのあと蕪村たちは桜の宮へ向かいます。神社境内はもちろん大川の水辺に至るまで桜が植えられ、浪花随一と言われたさくらの名所です。そこで花見をしています。しかし毛馬まで足を伸ばしたという記録はありません。兵庫へ出掛けて二十一日には夜舟で帰宅の途についています。
源八をわたりて梅のあるじかな 蕪村
こんな句も詠み、目と鼻の先のところに故郷が待っているのに、なぜ立ち寄りもしなかったんでしょうか。大阪へは数えるほどしか来ていない。寄るのならこの時だと思われるのに…。これは謎です。
最後に蕪村という俳号の由来について。一つは隣の天王寺村が蕪(かぶら)の名産地だったから、そこからとったという説。二つ目は、陶淵明の「田園将(まさ)ニ蕪(あ)レナントス」という文句からだという説。現在では後者がほぼ定説とされているようです。となると蕪村とは「荒れた村」の意になります。望郷の念のあふれた春風馬堤曲を詠んだ蕪村が故郷の村を訪れなかった理由は謎のままです。室生犀星の言うように「ふるさとは遠きにありて思うもの」だったんでしょうか。
一軒の茶見世の柳老にけり 蕪村(春風馬堤曲より)

↑淀川両岸一覧、上り船之部より(松川半山画)。毛馬の岸。土手に描かれているのが春風馬堤曲で出てくる茶店だったのかもしれない。この土手の向こうに蕪村の生家があった。 (平野)
(参考資料)
「与謝蕪村」(田中善信著 吉川弘文館刊)
「蕪村の手紙」(村松友次著 大修館書店刊)
「与謝蕪村」〈江戸人物讀本〉(谷地快一編 ぺりかん社刊)
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2009年02月17日
室町時代の謡曲「芦刈」に登場する「大江の岸」は「八軒家船着場」の辺りだった?
2月3日付け「浮瀬(うかむせ)奇杯ものがたり」をお読みいただいた見市泰男さんからお手紙をいただきました。
見市さんは当代屈指の能面作家であり、当然のことながら謡曲にも詳しいのですが、お手紙の中にわが八軒家が登場する謡曲にふれた箇所もありましたので、本人の承諾を得て一部を掲載させていただきます。
『謡曲「浮瀬」のマザーストーリーになっております「猩々」のテキストをコピーしましたので同封いたします。「猩々」は古来おめでたい能(祝言能)として人気があり、猩々が酒に酔い水面の上を舞う(流れ足)場面が真骨頂です。その「伝説の酒の妖精」である「猩々」が「浮瀬」の奇杯のことを聞きつけて、中国から日本まで一杯飲みにやって来るという奇想天外な発想が面白く、作曲したのは吉本を生み出した大阪的感性を持つ能楽師ではないかなどと想像したくなります。
(略)
ちなみに、謡曲「芦刈」序段の謡に登場する「大江の岸」は京阪の天満橋北側にあった八軒家船着場の辺りのようです。八軒家船着場は広沢虎造の浪曲「清水次郎長伝:石松三十国船道中」のなかで有名な「寿司食いねえ・・・」が展開する三十石船の船着場です。この名場面が八軒家から京都の伏見まで川を遡る船のなかでの話(もちろんフィクションでしょうが)であることは、はずかしながら最近知りました。石松は酒樽と本町橋の押し寿司を携えて船に乗りこみます。その「本町橋の押し寿司」を食うてみたいと思いちょっと探したことがあるのですが、残念ながらそれらしい店はありませんでした。浪曲の上での創作でしょうか。ご承知でしたらご示教下さい。』
↓ツレ(芦刈の場合はシテの妻)が着ける「小面(コオモテ)」(見市さん作)。ちなみに「芦刈」のシテ(主役)は直面(ヒタメン)と申しまして、面を着けずに素顔で演じます。

八軒家かいわいは、近くの徳井町に山本能楽堂があり、能とは縁の深い土地柄なのですが、そのつながりが室町時代(能の創世期!)までさかのぼれるとは思ってもみませんでした。見市さん、ありがとうございます。
見市さんの打つ能面は、当代一流の能役者に愛用されているだけでなく、その腕前は、古面の修復にも存分に発揮されています。実力は広く海外にも知れ渡り、海外の美術館からも修復依頼が舞い込むほど。そんな見市さんの作品、冒頭の小面以外にもいくつか紹介させていただきます。
↓「若女(わかおんな)」。小面より若干年上の女性。

↓「延命冠者(えんめいかじゃ)」。十二月往来の時のツレが使用する面。

ところで、見市さん、「本町橋の押し寿司」ですが、本町橋周辺にはそれらしい店は見当たらないようです。ただし、そこから松屋町筋沿いに十分ぐらい南に歩いたところに「たこ竹」という大阪寿司の老舗が店を開いています。創業が天保二年と言いますから、案外この店辺りをモデルにしたのでないかと。今度ぜひご一緒しましょう。
↓「たこ竹」は天保二(1831)年創業の老舗。シイタケの混ぜご飯に穴子や鯛をのせた上ちらしは、木の芽の香りが上品で美味。夏場は炭で焼いた穴子棒寿司、冬は限定でサバの棒寿司が人気。(Yahooグルメより)

〈謡曲「芦刈」について〉
世阿弥(1363年?〜1443年?)が大和物語、今昔物語に想を得て作ったと伝えられる。貧しさ故に夫婦離れて働くうちに音信不通になった夫を、今は裕福になった妻が探し出し、手をたずさえて京にもどるという話。序段で道中の地名が謡いこまれており、「大江の岸」は、「なほ行く末は渡辺や 大江の岸も移りゆく」と紹介される。後拾遺集に見える良暹法師の歌に「渡辺や大江の岸に宿りして雲井に見ゆる生駒山かな」とあり、この歌を踏まえたものと思われる。(津川)
〈参考文献〉
『能・狂言辞典』西野春雄・羽田昶編、平凡社、1999
『水都・大阪の入口「八軒家浜」』WEBギャラリー、大阪市立図書館、2008
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2009年02月13日
中世の八軒家は渡辺水軍の根城だった!
大阪の歴史を辿ると、難波京から石山本願寺までの間がぽっかりと空白になっているような印象があります。
しかし、ところがどうして、我らが八軒家かいわいでその時期に歴史の表舞台で活躍していた一族がいました。いわゆる嵯峨源氏の源綱(みなもとのつな)が、この地(渡辺津)に住んで、苗字を渡辺とし、渡辺氏を起こしたのがそれです。平安時代後期の頃です。
↓浪華住古図(宝暦六年)*大阪府史より

渡辺津は旧淀川(大川)の天満橋から天神橋あたり。窪津(くぼつ)とも呼ばれました。「摂津名所図会」によると八軒家の右岸を北渡辺、左岸を南渡辺と称したとあります。
この渡辺津は早くから瀬戸内航路の要港でしたが、延暦二十四年(八〇五年)に摂津の国府が設置されるとさらに人の往来や船舶の出入りが盛んになります。平安中期になると熊野や天王寺、住吉大社への参詣が盛んになるにともなって渡辺津は、その出発点として交通の重要な拠点としての位置をゆるぎないものにしました。
渡辺綱の後裔は、この渡辺津を中心に大川河口辺の港湾地域を本拠地とする「渡辺党」という水軍も兼ねた武士集団を形成し、いわば大阪の水上警察的な役割を担います。瀬戸内海や紀伊水道を海船によって運ばれてきた年貢米などは、ここで川舟に積みかえられて淀川を遡りました。そういった港湾関係者を統括する役割も担いつつ勢力を拡大していったと思われます。
渡辺党の家祖、渡辺綱(九五三年―一〇二五年三月一七日)は嵯峨天皇の系譜をひく源融(源氏物語の光源氏のモデルと言われています)の養子になります。義母が渡辺津に居住していたので、ここを本拠として渡辺氏を称しました。
綱は武勇に優れ、源頼光に仕えて「頼光の四天王」の一人と称せられます。大江山の酒呑童子退治や京の羅生門の鬼の腕を斬り落とした逸話などはあまりにも有名です。
↓渡辺綱が京都一条戻り橋で羅生門の鬼を切り落とした場面(歌川国芳画)*ウィキペディアより

↓大江山の酒呑童子と源頼光、源綱ほか(一英齊国艶が)*ウィキペディアより

↓「破奇術頼光袴垂為搦(きじゅつをやぶってよりみつはかまだれをからめんとす)」(一英斎芳艶画)

渡辺党はその後も着実に勢力を拡大し、保元の乱では源頼政の郎党として御白河天皇方につき、平治の乱では平清盛方について戦いました。頼政の源氏の再興の動きなどを経て、義経の屋島の戦いでは、義経が本陣を八軒家の坐摩神社に置いたことでも分るように、渡辺党の水軍が大いに力を発揮しました(十一世紀末以降、坐摩神社は渡辺氏の一族が神職を務めていました)。
屋島の戦い、壇ノ浦の戦いでは、義経が渡辺党を中心に水軍を編成し、渡辺津から出陣したのです。(平野)
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2009年02月10日
大阪のベルエポック「第五回内国勧業博覧会」
明治三十六年(一九〇三年)三月一日から七月三十一日までの五ヶ月間、天王寺を会場に第五回内国博覧会が開かれました。フランス革命百周年記念と銘打ったパリ万博が一八八九年(この時エッフェル塔が建てられました)。そのわずか四年後のことです。
これは日本の勧業政策に基づく国家プロジェクトで、すでに東京の上野公園で一〜三回、四回目は明治二十八年、京都で開催されています。大阪が会場となったこの博覧会は、これまでと違って英・米・独・仏ほか欧米十三ヶ国が出品した「日本初の万国博覧会」といえるものでした。
↓第五回内国勧業博覧会会場正面*大阪市史第六巻より

まだ大阪に市電が走る前でしたから、入場客を会場まで運ぶ交通網がありません(現在の環状線に当たる関西鉄道・城東線などは開通していましたが、市内の足がありませんでした)。当時は人力車が主体、二万台は走っていたといいます。しかし、それでも到底、期間中四百五十三万人以上もあった入場者を運びきれません。
そこで大活躍したのがこの博覧会を機に整備された市内堀川を運行する巡航船です。巡航船の乗り場は八軒家、天満橋、堂島から川口、長堀など四十数ヵ所ありました。
博覧会会場の天王寺周辺だけでなく、これを機会に大川沿いの整備もすすみました。中之島公園には公会堂が建設され、明治三十四年に全焼していた大阪ホテルも三十六年一月には新築落成して外国人客を迎える準備も整いました。博覧会のガイドブックには「中之島公園」「大坂城」「造幣局」「公会堂」などの大川沿いの観光スポットが紹介されています。
↓明治30年後半頃の大川。左手前から府立図書館、明治36年竣工の旧中之島公会堂、大阪ホテル。*「ふるさと想い出写真集 大阪」より

博覧会場では工業館、教育館、農業館、林業館、水族館(堺の第二会場)などが設けられ、内外展示品の総数は二十七万六千点にも及びました。なかでも話題を呼んだのが蒸気自動車。これが大阪で自動車が紹介された最初です。あとカメラやタイプライターなども出品されています。とくに毎日五トンもの製氷能力のある百三十三坪もある巨大冷蔵庫は浪速っ子の度肝を抜きました。
博覧会を機に大阪の道路整備もすすみ、閉幕後になりましたが市電も開通、乗合バスも開通します。開幕前に営業を開始した市内巡航船は、市民の足として一日平均二万人近くの人を運んだといいます。
博覧会会場の跡地は、東側が天王寺公園に、西側一帯は「大都市大阪にふさわしい一大歓楽街」として開発がすすみます。パリとニューヨークを足して二で割った街「新世界」を作ろうという構想のもと、北には凱旋門にエッフェル塔を乗せた通天閣が完成、浪速のシンボルともなりました。南にはニューヨークの都市型リゾート「コニーアイランド」を参考にした遊園地「ルナパーク」が開園、その後目覚ましい発展を遂げます。(平野)
↓新世界ルナパーク*大阪市史第六巻より

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2009年02月05日
江戸VS大坂。大久保利通の大阪遷都計画とは?
慶応三年(一八六七年)十月十五日、大政奉還。徳川幕府は滅亡しました。新政府の基盤も固まっておらず、世の中も騒然という状態です。
そんな中で「人心を一新するには都を京都から移すべし」という遷都論が有力になってきました。大久保利通は大阪遷都論を強く主張しました。
↓大久保利通(サンフランシスコで撮影)*ウィキペディアより

この遷都論には公卿や大名から反対意見が湧き起こります。「いまにわかに大阪遷都を断行するには摩擦が大きい」と判断した大久保、三条実美、岩倉具視らは「天皇が大阪へ行幸し、海陸軍を親閲、しばらく大阪に留まれば、綱紀も回復されるだろう」との思惑から建白書を作って上奏します。これが慶応四年一月末のことです。
翌月三日には、大阪行幸が最終決定し、三月には大阪の豪商十五名が親征費五万両(いまでいうとおおよそ十億円)を調達します。そしていよいよ三月二十一日、天皇の一行は京都を出発して二十三日、大阪へ到着することになります。この大阪への行幸は実に総勢一六五五人にものぼる大行列だったそうです。時に天皇は十七才でした。
↓大阪行幸錦絵(大阪府史第7巻より)

↓明治天皇(明治五年)*ウィキペディアより

↓明治天皇(明治六年)*ウィキペディアより

大阪での天皇の行在所は大坂東本願寺津村別院。滞在中、陸海軍の親閲など、その活動は多方面に渡りました。三月二十六日には天保山で、電流丸、万里丸などの六隻(合計二四五二トン)、フランス艦一隻で日本初の観艦式を行っています(天保山には「明治天皇観艦之所」という行幸記念碑が立てられています)。

こうして一ヵ月余りの行幸を終えて、四月七日、八軒家より水路で守口へ上陸、同日淀城で宿泊したのち、翌日には京都へ還御されました。
この前後、「大阪は日本の中央でない」「港に大艦が入れない」「市街が狭い」「大阪は帝都にならなくても衰頽しない」といった理由で東京の戦略的重要性を訴えた東京遷都論が優勢になってゆきます。徳川家の「居城」に天皇が入ることで「民衆を悪政から解放する」といったイメージを印象づける狙いもあったようです。
九月八日、新政府は「一世一元の制」を定め、この日をもって元号を「明治」にすると発表しました。同月二十日、総勢三三〇〇人の行列が出発。これが日本史上初の東京行幸です。そして明治元年十月十三日午後二時、江戸城へ入城となります。大阪遷都の夢ははかなくも破れました。(平野)
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熊野街道がお祓い筋と呼ばれる理由?
土佐堀通りの熊野街道の碑のある南北の筋をお祓い筋といいます。「お祓いってどういうこと?」と素朴な疑問が湧いてきます。少し推理してみましょう。
平安末期、後白河法皇や後鳥羽上皇が熊野詣をする際にお清めし、お祓いをしたことに由来するという説もありますが…。じゃあどこでその神事を行ったかとかが定かでないようです。う〜ん、困りました。
「お祓い」というと一般には神前で行われる祈祷全般を言いますが、どうなんでしょう。調べてみるともともと「お祓い」とは、神道上において犯した罪や穢れ、不浄を取り除くための神事であったらしい。日本に律令制が敷かれた七世紀後期、飛鳥時代の終わり頃に大祓が国家儀式になったといいます。
ここからは編集部の推理です。熊野街道を南へ十キロほどゆくと住吉大社があります。住吉大社は全国で二千あまりある住吉神社の総本宮。禊祓の神が祀られています(その由来などは住吉大社のホームページでどうぞ)。ここで毎年七月三十日から八月一日までおこなわれる住吉祭は「おはらい」とも呼ばれます。参拝者は茅の輪を三回くぐり、お祓いをします。
どうも「お祓い筋」の名はこのあたりから来ているような…。住吉大社は「帝王編年記」(鎌倉時代に編纂)によると摂政十一年(二一一年)、神功皇后によって建立されました。あの熊襲征伐や新羅を平定した皇后です。住吉大社には住吉大神と一緒に神功皇后も祭られています。
↓朝鮮遠征(月岡芳年画 一八八〇年)*ウィキペディアより

当時、大阪湾は今より内陸に広がっており、仁徳天皇の時代には住吉津がおかれ、のちには遣唐使や防人も出発したりといった海上交通の要所でした(その後、仁徳天皇による上町台地の堀江開削などもあり、海上交通の中心は難波津へと移っていきます)。
八軒家近辺の坐摩(いかすり)神社(通称/ざまじんじゃ)も神功皇后によって建立されました。坐摩神社行宮には「神功皇后の鎮座石」と言われる巨石が祀られています。なにか「お祓い筋」の名前の由来と関係がありそうです。(平野)
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2009年02月03日
上方芸能辞典
発行所/岩波書店 著者/森西真弓
上方で誕生し、現在でも上演されている芸能についてまとめた事典。能、狂言、文楽、歌舞伎から落語、講談、漫才、民族芸能まで。ていねいな索引付き。

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2009年02月02日
松下幸之助の大阪電燈(現関西電力)時代
昭和の太閤さん、ご存じ松下幸之助さんは十一才の時、一家で天満へ移り住み、奉公に出ます。その後、大阪の路面電車を見て感動し、明治四十三年、十五才で大阪電燈(現関西電力)に内線見習工として入社し(浪速区幸町の営業所)、飲み込みの早いその仕事ぶりで入社後わずか三ヶ月で工事担当者に昇格、その後七年間勤めています。在職中に、簡単に取り外しができる電球ソケットなども考案したことは有名です。
南の演舞場の新装工事や通天閣の電灯工事など幸之助が担当した工事は数多くありますが、なかでも千日前の芦辺劇場の電灯工事はいまだに語り草になっています。大正三年(一九一四年)のことです。
↓右の建物が大阪歌舞伎座、左の芝居小屋が「芦辺劇場」

当時、映画館は活動写真と呼ばれ、爆発的な人気を得るようになってきていました。旧来の芝居小屋がどんどん映画館に改装されていきます。芦辺劇場もその一つでした。工事は三チームで行われ、彼はその総責任者を命じられます。年末の開館日を目指して六か月間の工事期間中、息を抜く暇もありません。オープン前の最後の三日間は一睡もせずに工事を決行。開館二日前に無事試点灯をすませたといいます。
芦辺劇場のあった千日前周辺には楽天地、常盤座、弥生座など六軒もの映画館がひしめいていました。当時はもちろん無声映画。全国で七千人もの弁士がいたそうです。
ちなみにチャップリンが映画デビューしたのも、この工事のあった一九一四年のことでした。
↓千日前の楽天地(ウィキペデイアより)

その後一九一七年、松下幸之助は大阪電燈を退社。自宅で電球ソケットの製造販売に着手、翌年には北区西野田(現福島区)で松下電気器具製作所(現パナソニック株式会社の前身)を創業することになります。(平野)
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「ひとつぶ300メートル」のネオン
「大阪がもっと元気になってほしいなあ」。道頓堀のグリコのネオンサインを見るたびにそう思います(正式には「ゴールインマーク」と呼ぶらしいです)。

江崎グリコの創業者江崎利一は明治十五年、有明海に近い現在の佐賀市の生まれ。父から薬業種を引き継ぎます。
ある日、地元の漁師たちが惜しげもなく捨てている牡蠣の煮汁を見てふと「ひょっとしてあの煮汁にはグリコーゲンが含まれているのではないか」と考え、九州大学に分析を依頼します。それが大正八年のこと。「育ち盛りの子供たちにグリコーゲン入りのキャラメルを―」。さっそく試作品作りが始まります。
まず大正六年、製品化のメドがつき、商品名も「グリコ」と決めた江崎利一は大阪の千代崎橋に江崎商店大阪出張所をひらき弟ほか三名に経営させます。そして大正十年の春、利一は一家をあげて大阪へと向かいます。同年「江崎商店」を設立、西区堀江工場を操業させます。

製品に自信はあっても、市中の小売店は、なかなか設立したばかりの江崎グリコの製品を扱ってくれません。じゃあ逆に一番信用のある店から攻めようということで北浜の三越へ断られても断られても足を運んで栄養菓子グリコの特長を訴えました。
そのあまりの熱心さにようやく取り引きがスタート。大正十一年二月十一日に店頭販売が始まりました。この日が江崎グリコの創立記念日とされています。

ちなみに道頓堀戎橋にグリコのネオン塔が建ったのは昭和十年。高さ三十三メートル。トレードマークのランナーとグリコの文字を点滅する花柄で飾った当時としては型破りのネオンです。浪速っ子の喝采を浴びました(現在のネオンは五代目。平成十年に完成したものです)。
このグリコネオンは二〇〇三年四月には大阪市指定景観形成物に指定されました。(平野)
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