2009年01月29日
堂島薬師堂の節分お水汲み祭
古代大阪は広大な干潟が広がり、多くの洲がありました。堂島の名の由来も「お堂のある島」からきています。
推古天皇の頃の史料に「東は玉造に四天王寺を、西の潟洲に御堂を建立した」という記録が残っているそうです。さらに延宝三年(一六七五年)に書かれた古文書にも「聖徳太子が四天王寺を創建するための建材輸送の船が暴風雨で難破、その船が流れ着いた洲にお堂を建てた」との記述があり、これが薬師堂の起源と思われます。
古代より大阪は遣隋使や遣唐使の出立の地であり、アジア交易や国際交流の玄関口でした。江戸時代に入ってからも舟運が栄え、天下の台所としての位置を確かなものにしていきます。
その頃、堂島一帯は蜆川と堂島川にはさまれた中洲になっていました。蜆川の北には曽根崎の新地があり、夏ともなれば芸妓衆の乗った涼み舟でにぎやかなことだったでしょう。
さらに元禄時代には米穀取引所も開かれ、蔵屋敷が次々と建ち、それはもう大阪に勢いのある時代でした。
そんななかで堂島薬師堂は江戸時代から明治時代と新地の花街や米相場師など多くの人々からの信仰を集めました。このころの堂島薬師堂には井戸があり、水が湧き出ていたそうです。お参りにきた人はその水を汲み身を清めたといいます。
堂島薬師堂は明治四十二年に一度焼失しましたが、仏像は類焼をまぬがれ再建、第二次世界大戦での戦災ものがれました。以前のお堂は瓦葺のものでしたが、現在のお堂はアバンザの敷地内にミラーガラスと石で構成した近代的なビルに調和したデザインとなっています。

この堂島薬師堂では立春の日の前日(今年平成二十一年は二月三日)に節分お水汲み祭が行われます。薬師寺の僧侶や鬼、福男などが法螺を吹きならし、銅鑼を鳴らして町内を歩きまわったり、願いを書き込んだ護摩を焚いたりといった行事もあります。古代の大阪に思いをはせつつ開運招福を願うのもいいかもしれません。(平野)
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「木簡から探る和歌の起源」
「難波津の歌」がうたわれ書かれた時代。難波津の歌の出自を探ることで和歌の起源に迫る。
発行所/笠間書院 著者/犬飼隆

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城下町大坂―絵図・地図からみた武士の姿
発行所/大阪大学出版会
監修/大阪大学総合学術博物館・大阪歴史博物館
サイズ/A4 100頁

七日市藩主大坂登城行列図(絵巻)などのほか、左の「大坂御固真図」など。

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古地図ライブラリー14「広重の三都めぐり」
発行所/株式会社人文社
サイズ/A4 128頁

浪花名所図会のほか左の大坂細見図(弘化改正)も掲載されている
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大阪引き札トランプ
大阪府と河内長野市で保管する文化遺産をデジタルアーカイブ化し、その超高精細デジタルデータを有償で貸し出すことで得た収益をさらにそのデジタルアーカイブの費用に充てようという事業の一環で生まれた商品。
販売元/なにわ名物いちびり庵

大阪市内の引き札では次のようなものがある。
●旧東区釣鐘町 大豆問屋 和田商店
●大阪天満市 昆布問屋 松田支商店×2枚
●大阪南区木津市場 乾物商 青地安次郎商店
● 同 同 児島支店
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壬生浪士VS相撲力士乱闘事件
壬生浪士とはのちの新撰組。文久三年(一八六三年)六月、不逞浪士の取り締まりを大阪町奉行から依頼された壬生浪士の近藤勇ほか十名は八軒家の京屋に宿をとります。
あまりの暑さに、近藤ほか二名を残して、ほかのメンバーが京屋の小舟で大川へ夕涼みに出掛けます。そのあと鍋島岸(現在の裁判所合同庁舎あたり。鍋島藩の藩邸があったことからこう呼ばれる)で舟を下り、北新地の住吉楼へ向かおうとした蜆橋。ここで事件が起こります。
前方から来た大坂相撲の一行と壬生浪士の間で「道をあけろ」「いやそっちこそ」といった口論が始まり、浪士の一人芹沢鴨が脇差しを抜き、峰打ちで力士を払いました。
さて、住吉楼へ上がって酒宴をひらいている最中、外が騒がしくなりました。なんと八角棒を持った力士数十人が意趣返しにやってきたのです。血気にはやる壬生浪士、しかも酒が入っているとあっては、これはもう大乱闘です。力士たちは死者一名のほか十数人の負傷者を出し、退却してゆきました。
京屋でその顛末を聞いた近藤が芹沢と連名で東町奉行所(西町奉行所だという説もある)に届け出た「口上覚」の記録が残っています。
↓相撲絵(歌川国貞画、一八六〇年代) *ウィキペディアより

翌日、乱闘の相手が壬生浪士だったと知った力士たちが詫びを入れ、これを快諾した壬生浪士はのちに開催される大坂相撲と京都相撲で警備を担当するなど友好関係を結びます。
↓明治中頃の相撲風景 *ウィキペディアより

ちなみに相撲や歌舞伎の贔屓筋のことを「タニマチ(谷町)」と呼びますが、これって谷町筋となにか関係があるんでしょうか。調べてみると確かなことは分りませんが、明治時代の終わり、谷町四丁目あたりに歯科医(外科医という説もあり)がいた。病院内に土俵を設けるほどの大の相撲好き。力士を無料で治療したり、若い力士に小遣いを与えたりしていた。そこからきていると言われています。(平野)
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2009年01月27日
浪速の橋のギャラリー「錦橋」
錦橋はフェスティバルホールの南側、土佐堀川に架かっている歩行者専用の橋。一九三一年、土佐堀川の可動堰として作られたものが一九八五年に現在のような歩道橋として生まれ変わりました。
その際、江戸時代や明治初年に描かれた浪速の橋の錦絵をタイル画にしたものを展示するなど、「浪速の橋ギャラリー」として整備されました。
「お江戸は八百八町、なにわは八百八橋」といわれますが、大阪市に管理されていた橋は一六二九本にものぼりました(大正十四年)。現在では市内中心部を流れていた川のほとんどが埋め立てられ、橋の数も激減していますが、まさに大阪は「水の都」だったわけです。(平野)
では錦橋のギャラリーを写真で少しご紹介します。
↓錦橋全景

↓錦橋北詰に展示されている浪速の橋の番付表

↓そのほか橋の錦絵や古地図、写真類などあれこれ





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2009年01月26日
八軒家の歴史を刻んだ料亭「三橋楼」
朝日新聞が創刊百三十周年ということで、明治十二年一月二十五日の創刊号の一面が刷られたちらしが折り込まれていました。その雑報の一つを読むと「来る二月二日に石町三橋楼にて大来吟会が開かれる」とあります。
石町といえばすぐご近所。当編集部としては見逃せません。で、調べてみました。
↓朝日新聞創刊号の一面

江戸時代、天神橋南詰を大川沿いに少しいくと東横堀川。現在の今橋のあるあたりは昔、大川へ突き出ていた地形から「今橋築地」と呼ばれていました。眼前をさえぎるものもなく、眺望がすばらしかったといいます。
↓「今橋つきじの風景(国員画)」(「浪花百景」)より

北浜から天満橋あたりには旅館や料亭が建ち並んでいましたが、その料亭の一つが 三橋楼です。三橋楼の名は東の京橋、そして天満橋から天神橋へと大川が一望できたことからきているとか。いまの北大江公園の一角、石町一丁目、八軒家から石町へ上がる階段を上り詰めた左手、ちょうどニコライ会堂があったすぐそばだったと思われます。明治八年(一八七五年)、史上名高い大阪会議(大久保利通が下野した木戸孝充、板垣退助を政界へ呼び戻すために開いた会議)の第一回目が開かれたのがこの三橋楼でした。明治八年一月八日の木戸孝充日記に『二時頃、大久保来訪、同氏同伴にて三橋楼に至る』とあります。
↓木戸孝充

↓大久保利通

その後、三橋楼のほか「専崎楼」や「加賀伊」などの料亭で会議が重ねられ、二月十一日、北浜の加賀伊へ木戸が大久保と板垣を招待するという形で三者会談(伊藤博文、井上馨が同席)が行われました。そして翌三月には木戸、板垣が参議へ復帰することになります。この際、木戸が加賀伊の店名を「花外楼」と改名することを提案。自ら看板を揮毫しています。
↓北浜の花外楼の「大阪会議開催の地」の碑

少し時代を遡った文久四年(一八六四年)の年末には、新撰組の近藤勇が三橋楼へ加賀屋を呼びつけ、問屋筋の三六軒からの十五万両の献金を申し付けたという記録も残っています。
こうして歴史が大きく変わる時の舞台となった三橋楼などの料亭も明治四十五年(一九一二年)、堺筋に市電が開通する際の拡幅工事などを機に廃れていきます。現在残るのは花外楼のみとなりました。その後、北浜一帯は大金融街として発展していくことになります。(平野)
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2009年01月20日
昆布ロードの終着点は「八軒家」?
平安時代までは昆布は神へのお供え物でした。その後、鎌倉時代になって北海道(蝦夷)から北前船で北陸、そして京都へ輸送されるようになります。
江戸時代に入るとこの北前船の航路がさらに開発され、下関から瀬戸内海を通って大阪へと伸びます。これが昆布ロードです。北前船の最大の交易品は昆布だったというわけです。

↑北前船は昆布ロードの花形だった
北海道から大量に運ばれてきた昆布は大川沿いの菅原町や天満宮界隈、靱(うつぼ)の永代浜などで荷揚げされ周辺には昆布加工店が数多くありました。現在の靱公園一帯には江戸時代から昭和の初めまで、海産物を取り扱う問屋が何百軒も軒をつらねていたといいます。その問屋街の中央に永代浜があり、そこで荷揚げされていました。

↑永代浜(摂津名所図会より)
天満でも青物市場を取り囲むように乾物問屋や昆布問屋がありましたが、昆布については靱の方が規模が大きかったようです。
こうして大阪の港に昆布が集約され、奈良や京都では精進料理に、大阪では浪速料理の出汁にかかせないものとして需要を伸ばしてゆきます。(平野)
投稿者 tategaki : 17:15| コメント (0)| トラックバック (0)
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